エキスパート・コメント

南シナ海仲裁判断の意味

1.仲裁の経緯

 2016年7月12日、南シナ海をめぐるフィリピンと中国の紛争に関して、国連海洋法条約に基づいて設立された仲裁廷が最終的な判断を下しました。仲裁手続を開始したフィリピンが定式化した15の申立のうち、14の申立についてフィリピン側の主張をほぼ認容する結論に至ったことから、フィリピンの「全面勝訴」、あるいは中国の「全面敗訴」と報じられてきています。その一方、本仲裁判断は、南シナ海に浮かぶ島嶼に対する主権の問題や、2国間の海洋境界画定の問題には触れないことを明言しています。そのため、本判断は、スプラトリー(南沙)諸島やスカボロー礁といった島嶼およびその周辺海域に対する中国の主権・領有権を否定した(あるいは、フィリピンへの帰属を認めた)わけではありません。だとすれば、本判断は何についてどのような判断を下したのでしょうか。それは、果たしてフィリピンの「全面勝訴」というに相応しいものなのでしょうか。そもそも、南シナ海紛争の核心であるはずの主権・領有権問題に踏み込まない本判断に、何の意味があるのでしょうか。
 そこで、このコメントでは、仲裁判断の概要を解説しつつ、南シナ海をめぐる両国間の紛争に本判断がどのような影響を与えうるかについて展望してみたいと思います。

2.仲裁判断の全体像

 仲裁廷は、フィリピン側の15の申立を4つの争点群に分類しました。1つ目は、いわゆる「九段線」に囲まれた水域における中国の「歴史的権利」の主張の妥当性であり、本件最大の争点です。2つ目は、スプラトリー諸島を中心とする島嶼の法的性格です。3つ目は、岩礁の埋立活動など、南シナ海における中国の各種活動の合法性の問題です。4つ目は、仲裁手続開始後も紛争を悪化拡大させる中国の行為をめぐる問題です。
 これらのうち、2つ目の争点群に関しては他のコメントにて解説される予定ですので、以下では、その他の争点群について解説を加えていきます。

3.「九段線」と「歴史的権利」

 南シナ海紛争の歴史は浅いものではありませんが、少なくとも近年の緊張関係の高まりは、2009年に中国が国際機関(大陸棚限界委員会)に提出した文書に添付された地図を1つの契機とするものと見ることができます。この地図では、9つの破線が南シナ海の大半を取り囲むように描かれており、文書の本文と併せると、その内側に所在する島嶼及び周辺海域に対する主権や権利、管轄権を中国が主張していると読むことができます。これが、いわゆる「九段線 (nine-dash line)」と呼ばれる主張が国際舞台に公式に登場した最初の場面と見られています。そして、この「九段線」のいくつかがフィリピンの排他的経済水域に大きく食い込む形で描かれていたことから、フィリピンは2013年1月に仲裁手続を開始し、中国の海洋主張が条約に反し無効であるとの宣言を行うよう、仲裁廷に求めました。
 先に述べた通り、仲裁廷はフィリピン側の主張を結論としては大筋認めたわけなのですが、そのニュアンスには注意を払う必要があります。すなわち、仲裁廷の結論(主文)は、「『九段線』の関連部分によって囲まれた南シナ海海域に対する中国の歴史的権利 (historic rights)その他〔…〕の主張は、国連海洋法条約に反し法的効果を持たない」というものです。この一文を注意深く読むと、仲裁廷が退けたのは「九段線」そのものというより、「歴史的権利」という聞きなれない概念であることが分かります。こうした込み入った表現が用いられた理由は、手続的には、フィリピンがそのように最終申立を定式化したためではありますが、その背景をより突き詰めて考えますと、仲裁管轄の限界、および「九段線」の曖昧さという2点を挙げることができます。

4.仲裁管轄の限界

 まず、国連海洋法条約に基づいて設立される仲裁廷の管轄権が「この条約の解釈又は適用に関する紛争」にのみ及ぶ結果(288条1項)、同条約が規律しない主権・領有権の問題については仲裁廷は管轄権を持たないとの解釈が一般的であり、フィリピンと中国もこの立場を前提とします。また、「歴史的湾もしくは歴史的権原 (historic bays or titles)」という主権に関わる紛争については、条約当事国は選択的に仲裁管轄から除外することが可能であり(298条)、中国は2006年にその旨宣言しております。そのため、もし「九段線」が南シナ海の島嶼や海域に対する中国の主権や権原を主張するものであるならば、仲裁廷は、その当否をそもそも判断できない仕組みになっているわけです。

5.「九段線」の曖昧さ、具体的な「歴史的権利」

 ところが、懸案の「九段線」の意味するところについて、当の中国政府はこれまで公式の見解を示しておらず、むしろ意図的に曖昧にしているとも分析されてきました。専門家による分析は、破線の内側全域に対する主権や権原を主張するものだとする解釈から、より限定的な権利主張にとどまるとの解釈まで様々ありますが、いずれにせよ「九段線」が主権や権原の主張を意味するならば、仲裁管轄は否定されてしまいます。そこで、フィリピンは、想定しうる「九段線」に基づく主張の中から、主権や権原とは区別される権利の主張を抽出し、それらを国連海洋法条約ではなく歴史に根差した「歴史的権利」の主張として論理構成することで仲裁管轄を肯定すると同時に、同条約に基づかないがために法的効果を持たないとの議論を提起したわけです。
 この立論構成は、中国の有力な海洋法研究者による論文が示した「九段線」の解釈に基づくものであり、フィリピンは訴答書面から口頭弁論まで一貫して同論文に依拠しています。同論文は、「九段線」を3つの主張内容に分解できると解釈します。第1は、9つの線の内側に所在する島嶼に対する中国の主権や権原、第2は、同海域において漁業や航行、油田開発などを行う歴史的権利、第3は、海洋境界画定を行う際の補助的機能です。技術的な第3の点は省略するとして、主権と権原に関わる第1の点に仲裁廷の管轄権が及ばないことは上に述べたとおりです。他方、第2の点については、主権とは区別された、あるいは主権には至らない「歴史的権利」である以上、本仲裁手続でその当否を争えると考えたわけです。つまりフィリピンは、「九段線」が主権と歴史的権利の双方を包含しうると考えつつ、後者の側面のみを切り出して仲裁手続を戦う戦術を採ったわけです。
 もちろん、こうした「九段線」の理解はあくまで有力な解釈の1つにとどまり、中国政府の公式見解ではないことには注意が必要です。しかし、先に紹介した仲裁廷の結論の一見回りくどい表現は、こうしたフィリピンの立論との関係ではじめて十分に理解することができます。すなわち仲裁廷は、中国政府が「九段線」の意味を明らかにしたことはないとしつつも、「九段線」が歴史的に形成された権利主張と結び付けられてきたと認定します。その上で、そうした歴史的権利は、主権や権原には至らない限定的な権利主張を意味するものである以上、仲裁管轄を肯定できると判断しました。そして、「海の憲法」ともいうべき国連海洋法条約が海洋秩序、特に排他的経済水域及び大陸棚に関する法制を包括的に規律する以上、同条約ではなく歴史を根拠とする中国の権利主張は法的効果を持たないと結論したわけです。具体的には、歴史的権利に基づく石油開発鉱区の設定や、禁漁区域の設定などが挙げられています。

6.中国による各種活動の違法性

 「九段線」に加えて大きく報道されてきたのが、岩礁の埋立活動をはじめとする中国による南シナ海での各種の活動です。この問題も一見する限り、スプラトリー諸島やスカボロー礁の領有権問題が決着しない限りは法的判断を下せないようにも思われました。しかし、それら島嶼の性格の問題を扱うコメントが詳述するように、仲裁廷は、結論として南シナ海の係争海域の大半は公海あるいはフィリピンの排他的経済水域であると結論します。また、上に紹介した通り、歴史を根拠とする主張の余地が無くなった結果、中国の活動を評価する基準はあくまで国連海洋法条約をはじめとする現行国際法規則ということになります。その結果、南シナ海の島嶼の領有権問題とは切り離して、中国の各種活動の違法性を審理できることとなりました。
 具体的には、フィリピンによる海洋資源開発や漁業を妨害したこと、中国の違法漁船を公船でエスコートしたこと、伝統的な漁場であるスカボロー礁周辺海域からフィリピン漁民を締め出したこと、ウミガメやサンゴ礁などの絶滅危惧種の採取活動の防止措置を取るどころかむしろ積極的に容認してきたこと、サンゴ礁の埋立活動や人工島の建設を行ってきたこと、適正な環境影響評価を行ってこなかったこと、仲裁付託後も紛争を悪化拡大させたこと、などが国連海洋法条約の関連条項に違反すると判断しました。

7.仲裁判断の意味

 以上が、本仲裁判断の概要です。領有権問題に触れないのみならず、「九段線」の全貌も必ずしも明らかにすることなく限定的な「歴史的権利」に焦点を絞った点で、「全面勝訴」という割には、判断の射程は案外狭いと思われるかもしれません。もっともそれは、仲裁管轄の限界と「九段線」の曖昧さという事情を踏まえたフィリピン側弁護団の現実的な訴訟戦略の意図した結果でもあります。
 とはいえ、勝ちは勝ち、負けは負けです。仲裁判断は終局的であり、紛争当事国による遵守が求められます。しかし中国政府は、仲裁判断が無効であり、受け入れないとの立場を表明しています。それどころか、係争海域への公船の派遣を増強し、埋立活動を継続するなど、むしろ態度を硬化させる動きが報じられています。本仲裁手続を含め、国際裁判の判断は法的拘束力を有しますが、執行力を持たないため、敗訴国が無視を決め込む場合に判断内容を強制する術は持ち合わせていないのが現実です。では、本仲裁判断は絵に描いた餅に過ぎないのでしょうか。
 この点、中国が仲裁判断を受け入れないであろうことは半ば予測されていたことではありました。にもかかわらず、フィリピンが仲裁手続を進めた理由は、仲裁判断を得ることで紛争の射程が狭まることに意味を見出していたからです。「歴史的権利」の主張が否定され、またスプラトリー諸島には排他的経済水域や大陸棚を持ちうる島嶼は存在しないと判断された結果、係争海域の大半は公海もしくはフィリピンの排他的経済水域であることが帰結し、二国間の紛争は、いくつかの島嶼の領有権とその周辺12海里の領海をめぐる問題に縮減されたわけです。こうした判断は、今後二国間で紛争処理に向けた外交交渉を行う際の有意義な前提となり、意味のある争点整理を果たしたとみることができます。
 加えて、中国側の反論を引き出したという収穫も指摘できます。上に紹介した通り、中国政府は「九段線」の内容を説明せず、半ば意図的に曖昧にしてきました。本仲裁手続に対しても、あくまで仲裁廷の無権限という手続面を根拠とする批判に終始し、「九段線」の実質的な内容には踏み込んできませんでした。しかし、本仲裁判断が下されたのと同日、中国政府は、これまで見られなかった新たな表現で南シナ海への海洋権益を主張しました。その含意の分析は今後の課題となりますが、本仲裁判断が下されたことで、南シナ海に対する海洋主張についての中国側の反論を引き出すことができ、議論をわずかに一歩深めることができたと考えることができます。
 最後に、外交上のディスコースにおいて南シナ海紛争に言及する手がかりを与えたという点も挙げることができます。7月のASEANサミットでは言及されるには至りませんでしたが、9月20日のG7外相会合の声明は本仲裁判断に明示的に触れつつ、本判断が南シナ海紛争の平和的解決に向けた有効な基礎となる旨言及しました。中国を名指しで批判することなく、あるべき紛争解決の方向性に言及することを可能とした点で、本仲裁判断は、国際社会が南シナ海紛争に冷静に言及する足がかりを与えたということができます。

8.終わりに

 国連海洋法条約は、部分的な範囲で強制的な紛争処理制度の導入に成功しました。それは、中小国が大国と対等に渡り合うための装置であり、フィリピンが中国を訴えたのと同様に、クリミア問題との関連でウクライナがロシアを相手取り同様の仲裁手続を開始しました。その一方で、本仲裁制度には上に述べてきたような制度的限界があり、現実の紛争の全てに触れることができるわけではありません。そうした中で、国際裁判に過剰な期待を抱くことなく、しかし制約ある中で有意義な役割を見出していくためにも、まずは判断の意義を正確に理解することが大切です。

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