アンチドーピングとオリンピック・パラリンピック

国際法学会エキスパート・コメント No.2016-5

早川 吉尚(立教大学法学部教授・弁護士)

脱稿日:2016年9月19日

1.はじめに

日本選手団の大活躍もあって、リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピックは大盛況の中で閉幕しました。しかし、今回のオリンピック・パラリンピックにおいては、開幕前からロシアによる国家ぐるみのドーピング行為が問題となり、ロシア選手団の参加を一律に排除すべきか否かが議論となりました。
そこでは、一方に、アンチドーピングの体制を徹底するためには一律の排除が必要であるとの主張もあったようですが、他方に、ドーピングに手を染めていない選手までも排除されてしまう可能性があることから、一律の排除は望ましくないとの主張もあったようです。
どちらの主張にも一定の理があるように思えますが、この点についてどのように考えればよいのでしょうか? そもそも、リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピックでは、実際にどのような対処がなされたのでしょうか? また、その関係でメディアに登場してきた「国際オリンピック委員会(IOC)」、「国際パラリンピック委員会(IPC)」、「世界アンチドーピング機構(WADA)」、「スポーツ仲裁裁判所(CAS)」とはどのような組織で、相互にどのような関係にあるのでしょうか? そもそも、ドーピング行為とは何で、どうして行ってはいけないものなのでしょうか? そもそも、個々のアスリートは、アンチドーピング規則なる存在に、何故、拘束されなければならないのでしょうか?

2.ドーピング行為とその問題性

現代におけるドーピング「技術」の進展には凄まじいものがあります。密かに用いられる強烈な薬物によって内部から人体が改造され、競技力が人工的に強化されてしまいます。
しかしそれは、自分の走るトラックだけを100メートルから95メートルに短縮するに等しきアンフェアな行為と言えます。そのため、ドーピング行為の防止・摘発が不十分な国での競技会については、その結果・記録は全く参考にならないと言わざるをえません。加えて、ドーピング行為が発覚した場合のファンの落胆やその競技の以降の人気凋落など、その競技やスポーツ全体への悪影響も非常に大きなものになります。もちろん、死と隣り合わせの状態にまでアスリートを追い込むことの罪も重いと言えましょう(実際に死亡したり重い後遺症を負ったりするケースが少なくありません)。
しかしそれでも、一時的な「栄光」のために、ドーピングの誘惑に負けてしまうアスリートは後を絶たないというのが実情なのです。

3.世界アンチドーピング機構(WADA)と世界アンチドーピング規程

以上のようなドーピングへの規制強化要求の世界的な高まりに応えるため、1999年に設立された国際組織がWADAであり、その本部はカナダのモントリオールにあります。
WADAの最も重要な活動は、「世界アンチドーピング規程」の策定にあります。何がドーピング行為になるのか、摘発のためにどのような手続が行われるのか、違反の結果としてどのような制裁を受けることになるのか、違反の有無や資格停止期間の判定のためにどのような手続が用意されるのか等、アンチドーピング活動に関するあらゆる事項につき定める世界的なルールであり、2004年に初めて施行され、以降、2009年、2015年にそれぞれ大幅な改訂がなされています。
この世界アンチドーピング規程の内容は、各国際競技団体が内部において用意している団体ごとのアンチドーピング規則、各国において設置されている国内アンチドーピング機関のアンチドーピング規則において、全面的に取り入れられています。換言すれば、世界中のアンチドーピング規則が同内容であるのは、WADAと世界アンチドーピング規程の存在があるからであるとも言えます。
アスリートは、競技団体に加盟する段階で、さらには、個々の競技会にエントリーする段階で、こうした(世界的に統一された)アンチドーピング規則に従うことに同意することになります。すなわち、アンチドーピング規則がアスリートを法的に拘束するのは、これに従うことを内容とした契約に同意したからということになります。
それでは、(ロシアを含めた)国家はどうなのでしょうか。これについては、2005年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の総会において「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」が策定され、各国にWADAを中心としたアンチドーピング活動の支援を義務付けています。

4.スポーツ仲裁裁判所(CAS)

ところで、WADAは、世界アンチドーピング規程の策定以外にも重要な役割を担っています。すなわち、国際競技大会においてドーピング検査手続を実施するとともに、アスリートの尿検体からドーピングが疑われる分析結果(陽性反応)が出た場合に(そのアスリートが被告人的な立場であるとすると)検察官的な役割を果たすことになるのです。
それでは違反の有無や資格停止期間の判定を行う裁判官的な役割はどのような組織が果たすのでしょうか。この点に関しては、今回のオリンピック・パラリンピックについては、スイスのローザンヌに本部を有するCASという国際組織が、その役割を担いました。

5.国際オリンピック委員会(IOC)・国際パラリンピック委員会(IPC)

ところで、CASは1984年に設立されているのですが、スポーツに関する紛争を公正・公平に解決するために同組織の設立を主導したのが、IOCでありました。また、上述した1999年のWADAの設立を主導したのも、実はIOCなのです。
IOCは、近代オリンピックを開催するために、1894年にスイスのローザンヌに本部を置く形で設立されました。以降、オリンピックの開催母体として活動を続けており、オリンピックに関する様々な事項の最終意思決定機関であるとも言えます。他方で、近年においては、オリンピックの開催に合わせてパラリンピックも同時期に同一都市で開催されるようになっていますが、その開催母体で最終意思決定機関がIPCということになります。IPCは、1989年にドイツのボンに本部を置く形で設立された国際組織です。
ここでもう一度、オリンピック・パラリンピックにおいての各組織の関係を整理してみましょう。まず、オリンピック・パラリンピックの開催母体であり、最終意思決定機関はIOC・IPCです。他方、アンチドーピングに関する事項については、WADAが責任を持って摘発等の活動を行っています。しかし、アンチドーピング規則違反の有無や資格停止期間の裁定については、中立的な立場であるCASが責任を有するということになります。
こうした大きな枠組の下、今回のリオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピックでは、WADAが行ったドーピング検査によって陽性反応が出たアスリートについて、CASがドーピング規則違反の有無や資格停止期間の裁定を行い、その裁定結果、さらには、そうした運用の全体についてIOC、IPCが是認するという形で、アンチドーピング活動が行われるというのが原則の形態でした。

6.リオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピックでの実際の対処

ところが、今回のリオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピックについては、その開催前に、これまでは想像もつかなった事態が発生してしまいました。すなわち、ロシアによる国家ぐるみのドーピング行為です。
これまでに確立されてきたアンチドーピング体制は、アスリートから提供される尿検体についてWADAが公認する信頼性の高いドーピング検査機関が科学的に分析し、その結果、禁止物質が検出された場合に、上記の手続に移行するということを前提としていました。しかし、この科学的な分析を中立・公正に行うべきドーピング検査機関が、ことロシアにおいては、尿検体のすり替えといった不正を恒常的に行っていたことが発覚したわけです。これは、今まで想像もされていなかった事態であり、ドーピング行為を行っていないことが証明できなくなったロシアの選手達の参加を認めるか否か、IOC、IPCは、意思決定をしなければならない立場に追い込まれたわけです。
ここにおいて、一方に、オリンピック・パラリンピックにおけるアンチドーピングの体制を徹底するためには一律の排除が必要であるとの主張がなされ、WADAは当然のようにこの立場を支持しました。また、個別の事例でこの問題の判断を迫られたCASも、この立場を原則として支持する判断を下しましたが、しかし、「ロシア人選手であっても海外で主に活動しており、ロシア以外のドーピング検査機関での検査を前提にしたアンチドーピング手続に服していた選手については出場可能である」というように、例外の余地も残しました。他方で、ドーピングに手を染めていない選手までも排除されてしまう可能性があることから、一律の排除は望ましくないとの主張も根強くありました。このような状況の下、開幕の日が刻々と迫る中で、最終意思決定機関であるIOC、IPCは、この問題に関する決断を迫られることになったわけです。
結論としては、パラリンピックについてIPCは、ロシア選手団の一律排除という決断をしました。他方、オリンピックについてIOCは、自ら決断することを放棄し、各競技の国際競技団体にその決定を委ねてしまいました。その結果、ある競技についてはロシア選手団が参加しているのに、別のある競技については排除されているといったちぐはぐな状況が発生してしまったことは、記憶に新しいところです。

7.無実のアスリートがいる可能性があるのに?

それでは、この問題についてはどのような対処がなされるべきだったのでしょうか?
以下は、筆者の私見になりますが、国家ぐるみのドーピング検査機関の不正という事態の下では、海外の検査機関の下での海外のアンチドーピング手続に服していたような選手は例外としつつも、原則として同国の選手団が一律排除されるのはやむを得ないと考えます。
これまでに築き上げられてきたアンチドーピング規則の特徴の一つに、(わが国の刑事手続において犯罪行為をしていることにつき検察官側に証明責任があるのとは反対に)ドーピング行為をしていないことにつきアスリート側に証明責任があるということがあります。そのことは、アスリートが競技団体への加盟や競技会へのエントリーの際に同意するアンチドーピング規則に、はっきりと明記されています。そしてその背景には、アンチドーピング機関側に証明責任を負わせるという体制では、ドーピング行為を満足に摘発できず、結果、ドーピングの蔓延を許してしまうという強い危機意識があります。
とすると、信頼できないドーピング検査機関の検査結果しか存在しないが故に、自らの潔白を証明できないアスリートは、競技会に出場するために必要な資格を有していないと判断せざるを得ないということになるわけです。
この結論に対しては、ドーピング行為など全くしていないアスリートが選手団の中に混じっている可能性がある、すなわち、本当は無実の者の出場の機会が奪われているのではないかとの批判もあるでしょう。しかし、現在、世界的に受け入れられているアンチドーピング規則の基本ポリシーは、本当は無実の者の出場の機会が奪われることよりも、本当は有罪の者が出場してしまうことの危険性を排除する方に、重点を置くものになっているのです。
それでもさらに、自分の知らないところでなされた検査機関の不正の結果、不利益を被る者が出ることには納得できないという批判があるかもしれません。しかし、本件は、例えば、選手団の競技会へのエントリーを競技団体の役員に一括して任せていたところ、その役員がエントリー期間内での手続を失念した結果、選手団全体が出場できないというケースに似たところがあります。すなわち、他の者の不手際のせいではあるが、ルールはルールである以上、出場できないという結論についてはやむを得ないといったケースは、実は、他にも多々存在しているのです。そして、アンチドーピングというポリシーは、現代のスポーツ界においては、融通を利かすといったことが許されない、絶対的な存在となっているのです。そのことこそ、特にわが国においては、より広く認識される必要があるように思えてなりません。