子奪取条約関連の最高裁判決と子の返還の執行について

国際法学会エキスパート・コメントNo.2019-3

小池 未来(富山大学経済学部特命講師)

脱稿日:2018年12月31日

はじめに

 ハーグ国際私法会議が1980年に採択した「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(以下、「子奪取条約」という。)は、日本について2014年4月1日に発効しました。子奪取条約は、一方の親による子の不法な連れ去りまたは留置がなされた場合には、子の監護に関する紛争は子の常居所地国で解決されるのが望ましいとの認識の下、常居所地国への子の迅速な返還の国際的な協力の枠組みを創設することを目的の1つとしています。日本では、子奪取条約の的確な実施を確保するため、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約の実施に関する法律」(平成25年法律第48号。以下「実施法」という。)が施行されています。子奪取条約および実施法の概要については、林貴美=横溝大「国際的な子の奪取に関するハーグ条約」『国際法学会エキスパート・コメント』2014年9月19日(2018年12月31日にアクセス)を参照してください。

 子の不法な連れ去りまたは留置に関する争いが友好的に解決されない場合には、裁判に進むことになり、裁判所は原則として子の常居所地国への返還を命じます。ところが、この命令に反して、子を返還しないケースが見られます。最高裁は、このようなケースに関連して、現在までに2つの事件について判断を下しました。その判断は、最終的に子の処遇に関して結論が分かれています。以下では、1.なぜ2つの裁判において最高裁の結論が分かれたのかを考察した後、2.なぜ裁判所による返還命令にもかかわらず、直ちに子の返還が実現されないのか、実施法の制度上の問題について説明します。

 

1.最高裁による2つの裁判と分岐点

 不法な連れ去りまたは留置があったとして実施法第26条に基づき子の返還が申し立てられた場合、日本に所在する子が16歳に達しておらず、子奪取条約締約国である常居所地国の法令によれば当該子の連れ去りまたは留置が申立人の監護の権利を侵害するものであるときは、裁判所は子の返還を命じます(実施法第27条)。これらの条件を満たす場合に裁判所が申立てを退けるのは、実施法第28条1項に掲げる子の返還拒否事由があるときだけです。このうちのいずれかの事由に該当したとしても、常居所地国に子を返還することが子の利益になるときは、裁判所は子の返還を命ずることができます(同項但書)。子の返還が命じられた場合には、次項で説明する手続に則り、それが実行されることになります。しかしながら、前述の通り、裁判所の命令にもかかわらず、子が返還されない場合があります。この点に関連して、最高裁が下した2つの裁判を紹介します。

①最高裁平成29年12月21日決定(最高裁判所裁判集民事257号63頁、裁判所ウェブサイト

 米国に居住していた家族のうち、米国人父Aを同国に残して、日本人母Bと両者の子4人が来日し、日本で生活していました。ところがその後、子らの米国への帰国について両親の意見が対立するようになり、Aが、実施法第26条に基づき子らの返還を申し立てました。裁判所は、Bに対し子ら全員を米国に返還するよう命じましたが、子らの返還は実現されませんでした。そして今度はBが、Aの状況が変わったことを理由に、実施法第117条1項に基づき、子らを米国に返還することを命ずる裁判所の決定を変更するよう求めました。最高裁は、実施法第117条1項にいう事情の変更を認め当初の決定を変更することとし、子らの不返還が認められました。

 実施法第117条1項は、裁判所が、事情の変更により子の返還を命ずる決定を維持することが不当であると認めるに至ったときは、当事者の申立てに応じて、その決定を変更することができると規定して、一定の場合に限り確定した返還命令の結論を覆すことを認めています。本件では、Aが、解雇され定職のない状態であり、また、子らの監護養育について親族から継続的な支援を受けることも見込めない状況であったところ、返還命令が下された後、自宅を失い、安定した住居を確保することができなくなった結果、返還先国でのAによる監護養育態勢が看過し得ない程度に悪化したという事情の変更が生じたと認定されました。そして、そのことに鑑みると、実施法第28条1項に掲げる子の返還拒否事由(第4号および第5号)があり、かつ、子を返還することが子の利益になるともいえないと判断され、前述の通りの結論となりました。

②最高裁平成30年3月15日判決(最高裁判所民事判例集72巻1号17頁、裁判所ウェブサイト

 日本人父Cと日本人母Dは、日本で結婚し、その後生まれた第1子、第2子とともに家族4人で米国に移住し、同国で第3子Eをもうけました。ところがその後、夫婦関係が悪化し、Dは、Cの同意を得ずにEを連れて来日し、日本で生活を始めました。そこでCが実施法第26条に基づきEの返還を申し立てたところ、裁判所は、Dに対し米国にEを返還することを命じましたが、Eの返還は実現されませんでした。Cは次に、裁判所に人身保護法に基づく人身保護を請求しました。最高裁は、Eが自由意思に基づいてDの下にとどまっているとはいえない特段の事情があるためDのEに対する監護が人身保護法および同規則にいう拘束にあたり、そして、DによるEに対する拘束には顕著な違法性があるとして、人身保護請求を認容すべきとの結論に至り、EをCに引き渡すことが支持されました。

 人身保護法に基づく人身保護は、法律上正当な手続によらずに身体の自由を拘束された者の迅速な解放を目的とした特別な司法行政的な救済手続です。この手続により連れ去られた子の返還をおこなうことは、人身保護法の本来の制度目的ではありませんが、人身保護法および同規則に定める要件を満たす場合には、裁判所に子を出頭させ、判決と同時に子を請求者に引き渡すことができ、また、究極的には拘束者に刑罰が科せられることから、迅速性・実効性が高く、このような場面で多用されてきました。本件でも、Eと引き離されたCが、Eの返還を実現する目的で人身保護を請求し、その適用が認められ、前述の通りの結論が下されました。

 以上見てきたように、子の処遇に関して、これらの2つの事件の最終的な結論は分かれています。その分岐点は、実施法に基づき子の返還が命じられた後に、①事件では、事情の変更により返還命令を維持すべきでない状況になったと評価され、子を現状にとどまらせることが認められたのに対し、②事件では、人身保護法上、子を当人とともにある親の下にとどめておくべきでないと判断されたことに見出すことができます。

 

2.子の返還の執行手続とその問題点

 上で紹介した2つの事件のいずれにおいても、実施法に基づき子の返還命令が下された後、その執行が試みられましたが、それは不成功に終わりました。最高裁による2つの裁判に至る手続の開始には、多かれ少なかれこのことが影響しています。なぜ裁判所により返還命令が下されたにもかかわらず、直ちに子の返還が実現されないのでしょうか。

 実施法においては、子の返還を命ずる決定が下された場合に、債務者(子を連れ去り、または留置している親)が任意にこれを実行しないときは、まず間接強制の方法をとることとなっています(実施法第136条)。間接強制とは、子の返還を実行するまで一定額の金銭の支払いを命ずることにより、その実行を促す執行方法です。常居所地国への子の返還が、債務者により自発的にされることが子の利益の観点から望ましいと考えられたために、この方法が優先される仕組みとなっています。この支払命令が確定した日から2週間が経過すれば、債務者以外の者による子の返還を実現する手続である代替執行の方法をとることができるようになります。

 代替執行とは、執行官が子を債務者の監護から解放し、返還の実施が可能な状態にした上で(解放実施)、返還実施者として選任された者が常居所地国に連れて行くなどにより子を常居所地国に返還する(返還実施)という方法です。返還実施者には通常、債権者(子と引き離された親)や、常居所地国で当該子と同居していた親族等がなることとなります。解放実施とは、たとえば、債務者を説得し、執行官や返還実施者に子を引き渡させたり、または債務者が説得に応じず抵抗する場合には、有形力等を用いてその抵抗を排除して子を引き取り、もしくは返還実施者に引き取らせたりすることにより、返還実施者が子の監護を開始することができる状態にすることをいいます。執行官の権限については、実施法第140条に明記されています。

 解放実施に関しては、重要な2つの制限があります。1つは、こういった子の監護を解くために必要な行為が、子が債務者とともにいる場合に限りすることができるということです(実施法第140条3項)。その趣旨は、債務者にできる限り自発的に子の監護を解かせ、常居所地国への移動に必要となる準備等を含めて債務者の協力を得た上で返還を実施することが子の利益にかなうと考えられることにあります。また、債務者不在の場で子を連れ出すことを認めると、前述のような状況の下で子に負担の少ない形で返還を実現するという子の利益を奪うこととなるほか、子が事態を飲み込めず、恐怖や混乱を感じることが想定されるなどの問題が出てくることも考慮されました。もう1つの制限は、子には有形力等を用いることができず、子の心身に有害な影響を及ぼすおそれがある場合には、債務者等に対しても同様であるということです(同条5項)。これらの規定は、子の利益に配慮した重要な規定ですが、時に子奪取条約の主要目的である子の返還の執行を困難にします。

 ①事件では、執行官はまず、4人の子と米国人父Aを面会させようと日本人母Bと子らに対し説得をおこないましたが、子らがこれを拒絶しました。次に執行官は、年長の2人の子とAとの間で会話をさせましたが、当初より米国に返還されることを強く拒絶していた2人の意向に変化はなく、代替執行を続けると彼らの心身に有害な影響を及ぼすおそれがあることなどから、子の返還は実現することができずに終わりました。

 ②事件では、解放実施の際、日本人母Dが、執行官による再三の説得にもかかわらず玄関の戸を開けることを拒否したため、執行官は2階の窓を解錠して立ち入りました。その後も、Dは、子Eと同じ布団に入り身体を密着させるなどして、解放実施に激しく抵抗しました。また、Eも、米国に帰ることを促す執行官に対し、これを拒絶しました。執行官は、子の監護を解くことができないとして、子が返還されないまま代替執行を終えました。

 代替執行の際に子が債務者とともにいることが要求されることで、債務者による抵抗や子への働き掛けにより、子が親の選択を迫られるなどの大きな葛藤を感じる場面に直面することが少なくなく、子の心身に悪影響を及ぼすおそれがある事案もあることが指摘されています。また、債務者が体を張って子の引渡しを拒む場合には、無理矢理に引き離すなどして子の返還を実現することはできません。執行手続におけるこのような困難の克服は、実施法における今後の課題です。

 実施法の施行から5年が経過しようとしており、子奪取条約の的確な実施を促進するために実施法およびその運用を拡充すべく、まさに見直しの時期に来ています。現在、法制審議会(民事執行法部会)においては、実施法に基づく子の返還の執行に関する規律の見直しが取り上げられ、議論が進められています。「民事執行法制の見直しに関する要綱案」(2018年8月31日決定)では、たとえば、前述した解放実施の際の子と債務者の同時存在に関する規律を見直し、実施法による子の監護を解くために必要な行為を、債権者が執行の場所に出頭した場合に限りすることができるものとすることが提案されています。この提案は、子の心身の負担に配慮しつつ、執行の実効性を確保することを目的としています。仮にこのような規定があれば、本コメントで紹介した事件においても、子の返還の実現可能性は多かれ少なかれ上がっていたでしょう。