「ビジネスと人権」:国連による規範形成に焦点をあてて

国際法学会エキスパート・コメントNo.2019-5

菅原 絵美(大阪経済法科大学国際学部准教授)
脱稿日:2019年3月10日

 

はじめに

 「ビジネスと人権」への関心が日本国内でも高まりつつあります。例えば、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(以下、組織委員会)による大会準備・運営段階の調達に参加しようとする企業に国際人権法の遵守・尊重が求められていることをご存知でしょうか。組織委員会の「持続可能性に配慮した調達コード(第3版)」は、人権に関する企業の行為基準として、世界人権宣言、人種差別撤廃条約、自由権規約、社会権規約、拷問等禁止条約、女子差別撤廃条約、児童の権利条約、障害者権利条約、強制失踪条約、人身売買等禁止条約、先住民族の権利に関する国際連合宣言などを挙げています。なお、組織委員会では調達コードの遵守確保のため通報受付窓口を設置しています。

 このように企業に国際人権法の遵守・尊重が求められる背景には、企業の社会的責任(以下、CSR)の広がりに加え、「ビジネスと人権」に関する国連規範の形成があります。最近では2014年から条約案の検討が開始されています。本稿では、「ビジネスと人権」に関してどのような国連規範が形成されてきたのか(されようとしているのか)、そしてその結果、企業は、CSR以上に、国際法上の義務を負っているといえるのかについて確認します。

 

1.「ビジネスと人権」とは

 「ビジネスと人権(business and human rights)」という聞き慣れない言葉は、2005年の国連人権高等弁務官報告書のなかで「多国籍企業と関連企業の人権に関する責任(Responsibilities of transnational corporations and related business enterprises with regard to human rights)」の略語として登場しました。現在では、企業の事業活動全体(原材料調達、委託製造から流通過程、製品の廃棄・リサイクル・再資源化まで)とステークホルダー(労働者、消費者、地域住民など)との関わりにおける人権課題を包括的にとらえる概念として使われています。

 このように「ビジネスと人権」の登場は比較的最近のことですが、その概念の一部である多国籍企業の国際的規制に国際社会の関心が向けられるようになったのは1960年代からです。したがって「ビジネスと人権」には、1977年のILO多国籍企業および社会政策に関する原則の三者宣言(以下、ILO三者宣言)が取り上げる労働搾取や児童労働などの労働問題に加え、紛争鉱物、現代奴隷、イスラエルによるパレスチナ入植など政府や取引先による人権侵害への加担も含まれます。加えて、商品やサービス、事業活動を通じた人権の促進など、持続可能な開発目標(SDGs)の実現にむけて積極的な役割を担うことも「ビジネスと人権」の関心対象となります。

 以下では、現在まで続く国連における「ビジネスと人権」に関する規範形成の試みをみていきます。

 

2.「人権に関する多国籍企業および他の企業の責任に関する規範」(2003年)の挫折

 国連の人権システムのなかで、例えば多国籍企業による先住民族や地元住民への人権侵害など、企業による人権侵害が取り上げられ始めたのは1980年代後半です。数年にわたる研究調査を経て、個人資格の専門家からなる国連人権小委員会は2003年に「人権に関する多国籍企業および他の企業の責任に関する規範」(以下、規範)を採択しました。

 小委員会は、条約化は非現実的とする一方、実施手段を備えた「自発的ではない(nonvoluntary)」性格の国際文書として規範を起草しました。規範では、国家が第一義的な人権保障義務を負うことを確認したうえで、多国籍企業およびその他の企業は、「それぞれの活動および影響の範囲内で…国際法および国内法で認められた人権について、促進し、その実現を確保し、尊重し、その尊重を確保し、保護する義務を有する」(第1項)と規定されました。この企業の多面的義務の文言は国家の義務と全く同じものになっています。前文には、国連憲章、世界人権宣言に始まり、人権、労働、人道、環境、国際犯罪など数百に及ぶ国連条約やその他の国際文書が挙げられており、企業の義務はこれら条約や国際文書から導き出され、規範はそれを再確認するものであることが強調されています。第2項以降は、企業が義務を負う内容であり、機会の平等および差別的でない処遇への権利、人の安全への権利、労働者の権利、国家主権の尊重と人権、消費者保護に関する義務、環境保護に関する義務があります。また、規範の実施手段として、国連または国際・国内制度による企業の定期的なモニタリングと検証が規定されました。具体的には、国連の調達プロセスでの規範の活用、国別・テーマ別の特別手続を通じたモニタリング、人権委員会による専門家グループなどの設置、人権小委員会によるモニタリングなどが含まれます。

 このように国家と同等の法的義務を企業に課すことを目指した規範は、賛成・反対と意見の分かれる国家、企業、市民社会の間に深い対立を招きました。翌2004年、国家代表からなる国連人権委員会は規範が委員会の要請に基づくものではないことを確認し、国連人権高等弁務官に対し、「多国籍企業と関連企業の人権に関する責任」に関する既存のイニシアチブや基準の範囲や法的地位に関する報告書を、政府、企業、使用者団体、労働組合、市民社会、国際機関との協議を通じてまとめるよう求めました。翌年発表された報告書では、協議を通じて明らかになったイニシアチブや基準は200を超え、規範はあくまでもそのひとつと位置づけられ、また国連グローバル・コンパクトなどCSRに根差したものが多く登場することになりました。これが1で紹介した2005年の国連人権高等弁務官報告書であり、「ビジネスと人権」は多国籍企業の規制からCSRまでを含む、幅広い内容を意味するようになりました。

 

3.「国連ビジネスと人権に関する指導原則」(2011年)の承認と普及

 規範に端を発する膠着状態を打破したのは、2005年に国連事務総長特別代表に任命された国際政治学者のジョン・ラギーでした。ラギーは「基準は、多くの場合、ただ単純に記録され、履行されるのを待ってそこに『存在する』のではなく、社会的に構築されるものである」という立場から、国家、企業、労働組合、市民社会、先住民族、国際機関などのステークホルダーとの協議を、地理的配分などに考慮しながら繰り返し行い、草案をまとめていきました。その結果、2011年、国連人権理事会において、「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、指導原則)の支持が決議17/4で採択されました。指導原則は、国際人権法を尊重する企業の責任を認めたもので、加盟国からの承認を得た、初めての国連文書となりました。一方で注意が必要なのは、指導原則はその名の通り、法的拘束力を持つ文書ではなく、国際社会の共通認識となる「政治的に権威のある解決策」として起草された点です。国連人権理事会による承認という後ろ盾を得て、指導原則は国際社会に広く普及・実施されてきています。

 さて、その内容ですが、国家の人権保護義務、企業の人権尊重責任、救済へのアクセスの3つを柱としています。第一の柱として、国家は国際人権法上の義務として、すでに保護義務を負っていることを確認します(原則1)。そのうえで、国際人権法で義務化されていないし禁止されてもいないとしながら、指導原則では領域および/または管轄内に住所を定める企業が域外の活動で人権を尊重するよう国内措置をとるべき(原則2)と本国の域外的保護義務を明記しています。第二の柱である企業の尊重責任について、義務ではなく責任という用語が用いられたのは、現在の国際人権法は人権の尊重を法的義務として企業に直接課していない一方、人権の尊重は企業に期待される行為基準となっているからであり、このことは人権理事会も認めています。この企業責任は、国際的に認められた人権(世界人権宣言、自由権規約、社会的規約、中核的労働基準であるILO基本8条約)を最低限の基準としています(原則11)。また国家の義務とは独立しているため、受入国・本国による人権条約批准の有無や国内実施状況とは関係なく、企業は国境を越えた活動全体で国際人権基準を尊重する責任を負います(原則23)。具体的には、全社的な人権方針を定め、人権への悪影響を防止・軽減する人権デューディリジェンスのプロセスを実現し、そして適切な場合には悪影響を是正するための救済や苦情処理の措置をとるよう求められ(原則15-21)、その責任はバリューチェーンにも及び(原則13・19)、取引先に対し人権侵害を是正するよう働きかける責任を負います(原則22)。第三の柱である救済へのアクセスは、国家の司法・立法・行政を中心に(原則25-28)、企業やステークホルダーによる単体または協働型の苦情処理メカニズムによる実現が目指されています(原則29・30)。

 指導原則は法的拘束力のある文書ではないものの、企業の人権尊重責任を加盟国が承認したものとして注目を集め、国家、国連機関のみならず、企業、市民社会などに広く普及・実施されてきました。国際レベルでは、2012年の国連人権理事会決議21/5により、国連事務総長、国連諸機関、人権条約実施機関を含めた国連システム全体における指導原則の普及と実施が求められました。一例として、人権条約では、それまでも域外的保護義務を認める実行があったものの、決議後はより多くの条約実施機関が一般的意見・一般勧告や政府報告審査の最終所見などで域外的保護義務を取り上げるようになりました。また既存のイニシアチブや基準に指導原則が統合されており、例えばILO三者宣言は2017年の改定で指導原則が盛り込まれました。国レベルでは、指導原則を国内政策化する国別行動計画(NAP)が21ヵ国で策定され、日本は2016年に策定を宣言、2018年末にNAP策定のためのベースラインスタディ報告書が発表され、現在プロセスが進んでいます。また英国およびオーストラリアでの現代奴隷法、フランスでの企業注意義務法など指導原則の内容を反映した国内法が制定されています。民間レベルでは、指導原則に依拠した人権方針の策定に続き、2018年にANAが日本企業で初めてとなる「人権報告書」を発表しました。投資や調達でも指導原則の導入が見られ、その一例が冒頭に紹介した2020東京大会での調達コードです。調達コードの前文では持続可能性に関する国際的な合意や行動規範のひとつとして指導原則が挙げられています。

 

4.ビジネスと人権に関する条約案および選択議定書案(2018年)の登場

 2014年の国連人権理事会決議26/9において、「多国籍企業およびその他の企業の活動を国際人権法において規制するための国際的な法的拘束力ある文書を策定する」ことを目指した政府間作業部会が設置されました。この背景には、指導原則を歓迎しながらも法的拘束力ある文書の策定を強く求めてきた国々をまとめるエクアドルのリーダーシップと、指導原則の「現場(on the ground)」での実効性を疑問視し条約化を望む500を超える市民社会組織の結束がありました。

 翌2015年から作業部会会期が始まり、2017年にはこれまでの審議に基づき「人権に関する多国籍企業とその他の企業に関する法的拘束力ある文書草案のための要素」(以下、要素文書)が、2018年には「多国籍企業およびその他の企業の活動を国際人権法において規制するための法的拘束力ある文書(ゼロ草案)」(以下、条約草案)、「多国籍企業およびその他の企業の活動を国際法において規制するための法的拘束力ある文書の選択議定書草案」(以下、議定書草案)が発表、検討されました。

 条約草案では、二カ国以上の管轄に及ぶ活動、人、影響に関与する「多国籍な性格を有するビジネス活動」に関して、締約国に対し、国内法において自国企業がその活動を通じてデューディリジェンス義務を負うことを確保すること(条約草案第9条)、そして被害者本人に加え、家族や被害者の支援者が司法および救済への実効的で迅速なアクセスへの権利を有することを認め、自国の国内裁判所への訴えを保障し、人権侵害を捜査し加害者に対し必要な行動をとるとともに、情報へのアクセス、法的支援、費用の支援を行うこと(条約草案第8条)を求めています。企業は、人権侵害を防止するデューディリジェンス義務の不履行に対する責任(条約草案第9条)および人権侵害に対する刑事・民事・行政責任(条約草案第10条)を国内法で課されることになり、国家はそれを確保する国際法上の義務を負います。なお、要素文書では「企業の義務」が草案の要素として示されましたが、検討過程で政府代表から国際人権法上の法的根拠や国際的な実施制度を欠いていることなどに強い懸念が示された結果、条約草案では削除されています。また、他国の管轄に及ぶビジネス活動を対象としているため、締約国に対して刑事共助の義務や国際協力の促進を規定しています(条約草案第11・12条)。これら条約上の義務は一般国際法の諸原則に従った形で実施され(条約草案第13条)、条約の履行確保については、委員会による国家報告制度(条約草案第14条)や個人通報制度(議定書草案第8・9・10・11条)を設けるほか、政府からの独立性と政府に対する勧告権限などを確保された国内履行メカニズムを設置する義務(議定書草案第1条)を締約国に課しています。

 なお、締約国による企業への管轄を認める要件である「住所を有する」ことの定義として、締約国内に①法律上の住所、②中心的な管理部門、③ビジネス上の相当な利益、④子会社、代理店、仲介業者、支社、駐在員事務所またはそれ相当するもの、これら①から④のいずれかを有する場合としています。なお、③と④については草案検討で懸念が示され、修正・削除の提案がなされています。

 

おわりに

 「ビジネスと人権」が国際社会の関心事項となり、現在までに国連においてどのように規範形成が試みられてきたのかを振り返ってきました。さて、企業は、CSRを超えて、人権を尊重する国際法上の義務を負っているといえるのでしょうか。企業による人権侵害をいかに規制するのかについては、国家、企業、市民社会など国際社会のアクターの間で立場が様々で、なかでも企業義務の条約化はその立場の違いを先鋭化させる論点であるため、衝突を繰り返してきました。2003年の規範は国家と同様の多面的な人権義務を企業に認めようとする試みでしたが、国際社会の衝突のなかで挫折しました。その経験を受けた指導原則は、企業に対し、国際人権法上の義務ではないが、国際人権法を行為基準として尊重する責任を認めるものになりました。一方、義務化により国際的規制の強化を望むアクターの訴えは続き、2014年からの条約草案作成につながりました。しかし、2017年の要素文書には企業の国際法上の義務についての項目がありましたが、2018年の条約草案ではなくなっています。草案検討のプロセスにおいて、今後の目標として企業義務の創設を何らかの形で文言に盛り込むべきという発言は依然として続いています。以上の紆余曲折を経て、現在のところ、企業は国際人権法上の義務を負うとはいえないでしょう。

 一方、規範形成を通じて「ビジネスと人権」に新たな展開も見られました。第一に、国際社会における企業の行為基準としての国際人権法の履行確保の広がりです。指導原則に法的拘束力はありませんが「権威ある政策文書」として、国連諸機関のみならず、国際・地域機関、政府、企業、市民社会組織などによって履行されていることはすでに紹介しました。市場の反応に敏感になる企業にとって、投資家、消費者、取引先からの国際人権法遵守の要請は時に法的規制以上の「拘束力」をもちます。もちろん、この事実上の「拘束力」には限界もあり、被害者の司法的救済へのアクセスは条約草案の根幹になっています。

 第二に、自国企業の域外での人権侵害に対する国家の保護義務に関する展開です。この国家の域外的保護義務は、以前から一部の人権条約実施機関でその履行が勧告されてきましたが、指導原則の承認を経て一般化が進み、人権条約の国際的実施のなかで一層定着してきました。もちろん、自国企業による域外での人権侵害がそのまま本国の義務違反となるわけではなく、自由権規約の個人通報事例(通報番号2285/2013)の受理可能性審査で指摘されたように、国家の義務と問題となる企業行為、そして個人の権利の侵害の間に十分な結合が存在する必要があります。この点は条約草案での議論を通じて明確になっていくことが期待されます。