ILO「暴力およびハラスメント撤廃条約」について

国際法学会エキスパート・コメントNo.2020-3

近江 美保(神奈川大学教授)
脱稿日:2020年1月21日

 

はじめに

 国際労働機関(ILO)は、2019年6月21日、設立100周年を記念する第108回総会において、「仕事の世界における暴力およびハラスメントの撤廃に関する条約」[1](ILO条約第190号、以下、暴力およびハラスメント撤廃条約または本条約)を採択しました。本条約は、仕事と関わる暴力とハラスメントに焦点を絞り、その撤廃を目ざす初の国際条約です。職場でのパワー・ハラスメント(パワハラ)や女性に対するセクシュアル・ハラスメント(セクハラ)などの暴力やハラスメントは、残念ながら、あらゆる国で職種や雇用形態を問わずに起きています。この条約は、どのような仕事や働き方であっても、暴力やハラスメントを受けたり怖れたりする必要のない環境で働くことはすべての人の権利であるという考えに基づいて、作られています。

 

1.ILOとILO条約について

 最初に、本条約を採択したILOとはどのような組織なのかを簡単に見てみましょう。

 ILOは、1919年、ベルサイユ条約によって国際連盟とともに設立されました。現在は、1946年に採択された「国際労働機関憲章(ILO憲章)」およびその附属書に記載されている「国際労働機関の目的に関する宣言(フィラデルフィア宣言)」に基づいて活動する国連の専門機関で、187カ国が加盟しています。ILOは、憲章前文に謳われているように「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」という原則に基づいて、労働に関する様々な問題に取り組んできました。また、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」(憲章前文)という考えのもと、労働条件に関する国際基準を示す数々のILO条約を採択してきました。暴力およびハラスメント撤廃条約も、こうしたILO条約のひとつです。

 ILO条約はILO総会で採択されますが、総会における各加盟国の代表は、政府代表2名、使用者および労働者の代表各1名の計4名から構成されています。それぞれの代表は、総会において個別に投票する権利を持ち、条約や勧告の採択には、最終投票に出席した代表の三分の二の賛成が必要です。

 本条約は、ILO加盟国2カ国による批准ののち12か月後に効力を発生し(14条2)、以後は、批准した加盟国それぞれについて、批准の日から12か月後に効力を生じます(14条3)。本条約に法的に拘束されるのは、批准した加盟国のみです(14条1)が、憲章により、加盟国は条約が採択された会期の終了後1年以内または例外的な場合でも18か月以内に、条約を当該事項について権限のある機関(日本では、国会)に提出しなくてはなりません。これを過ぎても批准していない加盟国は、条約で取り扱われている事項に関する自国の法律および慣行の現況を、理事会が要請する適当な間隔をおいて、ILO事務局長に報告することが必要です。また、加盟国は、他の加盟国が批准しないことについて、理事会に検討を求めることもできます。

 それでは、ILO条約を批准した国に条約を守らせるための仕組みはどうなっているのでしょうか。まず、条約を批准した加盟国(以下、当事国と呼びます)は、自国が当事国となった条約の規定を実施するためにとった措置について、ILO事務局に年次報告書を提出します。この報告書は、総会に提出されて内容が明らかにされます。また、ある加盟国が当事国となっている条約を遵守していない場合、当該国の使用者または労働者の団体は、その事実をILO事務局に申し立てることができます。申立てに対して、当該国政府から十分な弁明が得られない場合、理事会は申立てと弁明を公表することができます。さらに、ある条約の当事国は、同じ条約の他の当事国が条約を遵守していない場合、事務局に苦情を申し立てることができますし、理事会または総会の代表も同様の苦情を提出することが可能です。理事会は、苦情を申し立てられた国に弁明を求めたり、審査委員会を設けたりして審議を行います。審査委員会による報告書を関係国政府が受諾しない場合には、苦情についての判断を国際司法裁判所に付託することも可能です。

 

2.本条約の採択

 ILOが本条約を採択するきっかけとなったのは、第98回総会(2009年)での「ディーセント・ワークの中心にあるジェンダー平等」という一般討議で、ハラスメントやジェンダーに基づく女性に対する暴力が取り上げられたことでした。その後、2015年に理事会がこの問題を第107回総会(2018年)の議題とすることを決定し、第107回総会では「仕事の世界における女性と男性に対する暴力とハラスメント」という議題で、国際基準の策定に向けた討議が行われました。会期後には、討議の内容を受けて事務局が作成した条約草案等に対する意見が加盟各国から提出されました。第108回総会では、再度討議が行われ、投票により本条約が採択されました。投票結果は、賛成439票、反対7票、棄権30票で、反対票を投じたのは、マレーシアの労働者代表およびマレーシア、シンガポールほかの使用者代表であり、日本の経団連を含む19カ国の使用者代表と6カ国の政府代表が棄権しました。また、同時に、本条約を補足するILO勧告206号も採択されました。

 

3.「暴力とハラスメント」とは何か

 本条約の前文は、暴力やハラスメントを受けることなく働くことはあらゆる人の権利であり、仕事の世界における暴力とハラスメントは人権侵害あるいは虐待の一形態であると位置づけています。そのうえで、条約の1条1項(a)は、仕事の世界における「暴力とハラスメント」とは、単発的であるか反復的であるかを問わず、身体的、精神的、性的または経済的危害を与える意図があるかまたは結果として危害を与えるか与える可能性のある、許容できない範囲の行為や慣行またはそれらについての脅威であると定義しています。この中には、ジェンダーに基づく暴力とハラスメントも含まれます。また、本条約で「仕事の世界」という表現が用いられているのは、以下で述べるように、いわゆる職場に限らず、広く仕事に関係する暴力やハラスメントを対象としているためと考えられます。なお、本条約は、暴力とハラスメントの区別には言及していません。

 本条約の保護の対象者となるのは、国内法や慣行によるいわゆる労働者に加えて、契約形態の如何にかかわらず働く人々、インターンや見習いを含む訓練中の者、雇用が終了した労働者、ボランティア、休職中の者や仕事への応募者、そして、使用者側の権限・任務・責任を行使・遂行する個人も含まれます(2条1項)。さらに、本条約を批准した加盟国がとるべき措置では、第三者、すなわち顧客や取引先、一般の人々等に対する暴力とハラスメント、あるいはそれらの人々によるものについての考慮も求めています(4条2項、勧告パラ8(b))。

 本条約は、公であるか民間であるかを問わず、フォーマルおよびインフォーマル経済の双方において、さらに都市部も農山漁村地域も含むあらゆるセクターに適用されます(2条2項)。条約の適用対象となる場所や状況には、仕事場における公的および私的空間を含む職場、労働者に賃金が支払われる場所および休憩・食事をとる場所または衛生・洗浄・更衣設備、仕事に関する出張・移動・訓練・行事あるいは社会的(親睦的)活動時、情報通信技術(ICT)によるものを含む仕事関係のコミュニケーション、使用者から提供された住居、往復の通勤時が含まれます(3条)。

 

4.加盟国の義務

 本条約を批准した当事国には、仕事の世界における暴力とハラスメントの防止と撤廃のために、暴力とハラスメントの法的禁止、政策や戦略の策定、執行および監視機能の創設あるいは強化、被害者の救済と支援へのアクセスの確保、罰則の制定、教育訓練および意識啓発、効果的な査察および調査手段の確保などに、包摂的・統合的かつジェンダーに対応したアプローチによって取り組むことが求められています(4条2項)。以下、いくつかの点について、具体的な内容を見ていきましょう。

・法律による禁止

 当事国には、ジェンダーに基づくものを含め、仕事の世界における暴力とハラスメントを定義し、禁止する法律や規則を制定することが求められています(7条)。また、雇用や平等に関する法律だけでなく、必要であれば、刑法でも扱うべきとされています(勧告パラ2)。

・保護および防止

 当事国は、使用者に対して暴力とハラスメント防止のための適切な手段をとることを法的に義務づけなくてはなりません。使用者がとるべき手段とは、①暴力とハラスメントが許容されないことを明示し、労働者と使用者の権利と責任、通報と調査手続等を示した方針の策定、②暴力とハラスメントに関連する心理社会的リスクの考慮、③被害の特定とリスク評価に基づく防止・管理措置の策定、④労働者等への情報や訓練の提供などで、いずれの場合も労働者との協議が求められています(9条および勧告パラ7)。

・執行と救済

 当事国がとるべき措置には、①暴力とハラスメントを禁止する法や規則の適切な監視と執行、②効果的な救済への容易なアクセスと、安全かつ公正で効果的な通報および紛争解決制度の確保、③プライバシーの保護と秘密保持、④制裁、⑤ジェンダーに基づく暴力とハラスメントの被害者のためのジェンダー対応的かつ安全で効果的な通報および紛争解決制度と支援や救済の提供、⑥ドメスティック・バイオレンス(DV)の影響の認識と合理的な範囲における職場でのDVの影響の軽減、⑦生命や安全に深刻な危険が及ぶ可能性がある場合は、労働者に仕事を離れる権利を認めること、⑧即時執行可能な命令の発出等を含め、労働監督署等に暴力とハラスメントを扱う権限を認めることが含まれます(10条)。

・ガイダンス、訓練、意識啓発

 当事国は、使用者および労働者団体の代表と協議し、①この問題に関する国内政策、②使用者および労働者団体並びに関係当局に対するガイダンス・資源・訓練等の提供、③意識啓発キャンペーン等の実施を確保しなくてはなりません(11条)。

 

5.ジェンダーおよび暴力とハラスメントを受けやすい人々への注目

 本条約は前文で、ジェンダーに基づく暴力とハラスメントが女性と少女に過度な影響を及ぼすことに言及し、仕事の世界における暴力とハラスメントを終わらせるためには、ジェンダーによるステレオタイプや、複数および複合的形態の差別、ジェンダーに基づく不平等な力関係といった根本的な原因やリスク要因に取り組むための包摂的、統合的かつジェンダーに対応的なアプローチが不可欠であるとの認識を示しています。また、本条約の中には「ジェンダーに基づく暴力とハラスメント」という表現が何度も出てきますが、これは、セクシュアル・ハラスメントを含め、性別やジェンダーを理由に人々に向けられ、ある特定の性別やジェンダーの人々に過度な影響を及ぼすものと説明されています(1条1項(b))。もっとも、ここではジェンダーに基づく暴力とハラスメントを女性や少女に向けられるものに限定していないので、ジェンダーに基づいて男性に向けられるものや、LGBTなど性的マイノリティと言われる人々に向けられるものも含まれると解釈することができるでしょう。ジェンダーとは、一般に「女らしさ」、「男らしさ」のように社会的・文化的に形成された性差あるいは男女の関係性を意味します。ジェンダーは、性別による固定的な役割分担観念(ステレオタイプ)を押しつけることで、多くの場合、女性に対する差別を引き起す一方、性的マイノリティの人々は、男女二分法的なジェンダー規範に当てはまらないことによって差別を受けているといえます。

 本条約6条は、当事国に、法・規則・政策によって、女性労働者に加えて仕事の世界における暴力やハラスメントの影響を過度に受けてしまうような、脆弱な集団あるいは脆弱な状況に置かれた集団のひとつまたは複数に属する労働者等のために、雇用や職業における平等と非差別の権利の確保を求めています。また、条約9条が使用者に求めるリスク評価に関して、勧告は、差別、力関係の濫用、暴力やハラスメントを支持するようなジェンダー・文化・社会規範から生じるものに、特に注意を払うよう求めています(パラ8(c))。これらは、暴力やハラスメントの影響は、それを受ける人が置かれた状況によって一様ではなく、対応においてもそれぞれの状況の考慮が必要であることを示すものです。

 条約前文は、DVについて、雇用や生産性および健康と安全への影響や、政府、使用者および労働者団体、労働市場の組織が助けとなれることを述べています。当事国がとるべき措置の中にもDVに関するものが含まれているのは、すでに見たとおりです(10条)。DVをその名の通り家庭内(domestic)の暴力と考えれば、「仕事の世界」にDVへの対応を求めることは奇異に映るかもしれません。しかし、労働者等の中にもDV被害者がおり、DVを受けていればその人の働き方にも影響が及びます。さらに、社会におけるジェンダーの表れのひとつとしてDVをとらえるならば、仕事の世界におけるジェンダーに基づく暴力とハラスメントとの連続性を認めることもできるでしょう。DVの影響を軽減するための措置としては、DV被害者のための休暇、柔軟な就業形態とDV被害者の保護、DV被害者の解雇からの一時的保護(DVに関係ない理由によるものを除く)などが挙げられます(勧告パラ18)。

 

おわりに~日本国内における本条約実施の可能性

 日本でも、雇用機会均等法がセクハラおよびいわゆるマタニティ・ハラスメントを防止するための措置を事業主に義務づけ、育児休業や介護休業に関するハラスメントについては、育児介護休業法が同様の対応を求めています。2019年に改正された労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)でも、職場における労働者の就業環境を害する言動に起因する問題の解決を促進するために必要な施策の充実が規定され、事業主には「職場において行われる優越的な関係を背景とした言動」について雇用管理上の措置をとることが義務づけられました。同年12月には、いわゆる「パワハラ指針」も決定されるなど、ハラスメントに対する関心が高まっていますが、これらはいずれもハラスメントそのものの禁止を規定するものではありません。本条約が仕事と関連するハラスメントを広く(包摂的に)定義することによって、影響を受ける人々を少しでも掬いあげようとしているのに対し、日本の法律等では「業務を遂行する場所」「優越的な関係」などの条件をつけて、ハラスメントを限定的に定義しようとする傾向が見られます。また、これらは事業主に防止義務を課すものであることから、雇用関係にないフリーランサーや就活中の学生などに対するハラスメントについては、問題として認識されてはいるものの、対象外となっています。条約で求められている被害者に対する救済制度も、整備されていません。

 本条約が目ざしているのは、「相互の尊重と人間の尊厳に基づいた仕事の文化」(前文)の確立であり、働く人の人権としての暴力とハラスメントからの自由の確保です。女性に対するセクハラやマタハラ(または男性に対するパタハラ)、指導と称したパワハラが許容され、「#KuToo」によって異議が唱えられているような、ジェンダーに基づいた特定の服装を強制するような「文化」を変えていくために、日本政府も賛成票を投じた本条約の速やかな批准と、暴力とハラスメントのない仕事環境の実現への真摯で着実な取組みが望まれます。

[1] 政府による本条約の日本語訳はまだ作成されていませんが、ILO駐日事務所全労連国際委員会が本条約およびILO勧告206号の仮訳を公開しています。