スポーツと国際法――オリンピック運動に注目して

国際法学会エキスパート・コメントNo.2020-7

佐藤 義明(成蹊大法学部教授)
脱稿日:2020年5月22日

 

はじめに

 スポーツに係わる国際法は長い間ほとんど存在していませんでした。というのも、スポーツは基本的に私的な事柄(趣味またはエンターテインメント産業)であると考えられてきたからです。そもそも、スポーツの定義が確定しないと、スポーツに関する法の意味は確定しませんが、国際法はスポーツの定義を確定する必要があると考えてきませんでした。例えば、国連先住民族権利宣言第31条1項は、先住民族が「スポーツおよび伝統的競技」を維持するなどする権利をもつと規定しています。19世紀のイギリスで発祥したとされる近代スポーツと、伝統的競技――相撲がそれに当たるかどうか問題になりそうです――を同じスポーツと呼ぶべきかは1つの問題です。また、「マインド・スポーツ」とも呼ばれるチェスや「eスポーツ」とも呼ばれる電子機器を用いるゲームを、国際法がスポーツとして扱うべきかどうかも未解決です。

 私的な事柄であることは価値が低いことを意味しません。スポーツの自律性や競技団体の自治が強調されるのは、公的資金に依存することなく、公的規制から自由であることに価値があると考えられているからです。スポーツをおこなうことを楽しんだり、スポーツエンターテインメント産業に生産者や消費者として関わったりする人が増えたことから、関係者の納得を得て活動するために、関係団体は法的拘束力をもたない規範――関係者の間では事実上の拘束力をもちうることからソフトローとも呼ばれます――を策定することになります。それは、商人間で国境を越えて通用していた国際商慣習法(lex mercatoria)にならって、スポーツ法(lex sportiva)と呼ばれたり、「私的国際法」の一種であると位置づけられたりします。「私的国際法」は、スポーツ仲裁裁判所(CAS)と称する私的組織による仲裁などを介して事実上の「判例法」も形成しています。本稿は、オリンピック運動に注目して、スポーツに係わる国際法、政府間組織の決議(勧告)、「私的国際法」、そして、「私的国際法」が国際法に滲入しつつある状況を紹介します。 

 

1 国際法とスポーツ

 国際法はスポーツにほとんど言及していません。例えば、小笠原正他編『スポーツ六法2014年版』(信山社)がスポーツ国際法として挙げるのは、条約ではなく、ユネスコ「体育及びスポーツに関する国際憲章」ヨーロッパ・スポーツ担当大臣会議「新ヨーロッパ・スポーツ憲章」など政府間組織による勧告5つと「私的国際法」2つだけです。社会権規約第15条1項は、「文化的な生活に参加する権利」について規定しますが、同条の他の項が「科学的、文学的又は芸術的作品」や「科学研究及び創作活動」にのみ言及していることを踏まえると、この権利はスポーツとは関係がないというのが文言に即した解釈でしょう[i]女子差別撤廃条約第10条g号は教育課程の「スポーツ及び体育」における女性差別を禁止していますが、同条約にスポーツ自体を対象とする規定は存在していません[ii]障害者権利条約第30条5項も、「障害者が他の者との平等を基礎としてレクリエーション、余暇及びスポーツの活動に参加する」ために当事国が適当な措置をとるとしていますが、その焦点は「平等」の実現にあると考えられます[iii]

 児童の権利条約第31条1項は、「遊び及びレクリエーション」の活動をおこなう権利を確認し、同2項はそのために適当な機会の提供を奨励するとしています。何をどのようにおこなうかを本人たちが選択することは「遊び及びレクリエーション」の本質でしょう。同条は「文化的及び芸術的な活動」を促進するべきであると規定していますが、スポーツには言及していません。「遊び及びレクリエーション」の権利は、自由に選択される活動の1つとしてスポーツを排除しないことはもちろんでしょうが、種々の活動のなかでスポーツを優先して促進するべきであるとする根拠にはなりません。この点で、1949年ジュネーブ第3条約(捕虜待遇条約)第38条が「各捕虜の個人的趣味を尊重して、捕虜の知的、教育的及び娯楽的活動並びに運動競技を奨励しなければならない」と規定していることも想起されます[強調佐藤]。

 

2 “Lex sportiva”の増殖

 スポーツが一定のルールに則っておこなわれるゲームだとすると、その参加者が増え、技術が高度化するにつれて、国境を越えた大会で世界一を決定したくなることは自然です。そこで、ルールを世界的に統一し、世界大会を頂点とする競技会を組織する国際競技連盟が設立されることになります[iv]。国際オリンピック委員会(IOC)は競技横断的なイベントを開催することで資金を集め、これらの競技連盟にそれを分配する組織として、スポーツ界に影響力をもっています。そして、競技横断的なルール、例えば、ドーピングの禁止に関するルールを設定・運用しています。ドーピングについては、世界ドーピング防止機構(WADA)が各国政府も理事として参加する半官半民組織として設立されましたが、それを主導したIOC自身は私的団体です。IOCは2000年にスイスで法人として登録するまで、「法人格なき社団」というべき存在でした。IOCが法人登録した後も、スイス法はIOCについて情報開示などについて厳格な監督を及ぼすことなく、税の免除などの特権を認めています。

 “Lex sportiva”のなかでも注目されるのは、ドーピングに関するルールです。スポーツのルールはもともと公益と関係がありません。ラグビーでは手によるボール操作が許されているのにサッカーでそれが禁止されているのは、そのルールが競技を難くしてサッカーの娯楽性を増すからです。例えば、1986年のワールドカップにおけるいわゆる「神の手」によるゴールが反則とされなかったときにも、それが公益を損なうと考えられませんでした。ドーピングに関するルールも基本的に同じ性質のものです。死者を出してきたボクシングのような危険な活動に参加することも、それを望む個人には許されています。同じように、従来の法律は、競技者の健康に危険を及ぼしうるドーピングも、本人がそれを望むかぎり、禁止してきませんでした。そもそも、ドーピングは競技者の健康への危険を防止する目的で禁止されているとはかぎりません。世界アンチ・ドーピング規程2015は、競技者の健康への危険がない場合にも、競技力を向上しかつ「スポーツの精神に反するとWADA が判断している」薬物の摂取などの行為を、ドーピングとして禁止できるとしているからです。実際に、風邪薬の服用が規制されることもあるように、ドーピングに関するルールが常に競技者の健康の維持に貢献するということは困難です。ドーピングに関するルールの主要な目的は、最先端科学の成果の利用を制限することによって競技条件を統一すること自体にあるというべきでしょう[v]。WADAのルールではなく独自のルールを採用する競技団体もあるように、競技に参加する者全員がドーピングについて1つのルールを遵守していれば、それで競技の公正さは確保されると考えることもできます[vi]。なお、プロスポーツにおいては、被用者=競技者が安全に仕事=競技をおこなう条件を確保する使用者の安全配慮義務として、競技者の健康に危険を及ぼす薬物・行為の禁止が要求されるかもしれません。

 

3 “Lex sportiva”の国際法への滲入

 麻薬等については、1961年、1971年そして1988年に多数国間条約が締結されており、国内では「保健衛生上の危害を防止」する麻薬取締法も制定されています。それに対して、美容整形は医療行為として医師による施術が許されています。麻薬等に当たらない薬物を禁止したり、美容整形と本質的に同種の行為を禁止したりするドーピングに関するルールは、自発的な活動であるスポーツに参加するためのルールというべきものです。しかし、2005年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)で「スポーツにおけるアンチ・ドーピングに関する国際条約」が採択され、日本を含む批准国は “lex sportiva”が国際法――および、同条約を実施するために制定される国内法――に滲入することを認めました。ドーピングに関するルールを策定するための科学的研究・競技者の居場所情報の管理や抜き打ち検査を含む検査・違反者の組織の解明などは多額の予算と多数の人員を必要とします。同条約は、スポーツエンターテインメント産業の価値を高めるためにその生産者であるトップ・アスリートを主な対象としておこなわれてきた活動を、予算と人員にかぎりある警察・検察・裁判機構が肩代わりする足掛かりになるかもしれません[vii]

 IOCは2009年に国連総会のオブザーバー資格を与えられました(国連総会決議64/3)。この資格は非加盟国3、政府間合意に基づく組織100、非政府組織(NGO)6に与えられています(国連総会情報74/3[viii]。例えば、赤十字国際委員会(ICRC)もそのようなNGOですが、赤十字運動とオリンピック運動とは公益との関わりがまったく異なります。前者が武力紛争時に「人間の基本的必要」を満たす運動であるのに対して、後者は「遊び及びレクリエーション」の1つであるスポーツについて、教育での活用の促進など公益と関係のある活動もしているとはいえ――教育分野で活動するNGOは他にも少なくありません――、本質的には、イベントで資金を獲得し、加盟する国際競技連盟に配分する運動です。日本赤十字社が法律に基づく特殊法人であるのに対して、日本オリンピック委員会(JOC)が公益財団法人であることは、このような2つの運動の性質の相異を反映しています。IOCの国連総会への参加は、経済規模は大きいものの私的性質の強い団体が政府間国際機構への滲入に成功した例として注目されるかもしれません[ix]

 

おわりに

 IOCはオリンピック競技大会期間の休戦を呼びかける決議の採択を国連総会に働きかけ、国連総会は1993年からそのような決議を採択してきています(国連総会決議48/11[x]。オリンピック運動が公益に関係するというIOCの広報戦略の一環です。しかし、国連総会はその決議を実施する計画を策定・実行することも、その効果を検証することもないので、この決議は「茶番劇」とも評されています。実際に、このような決議が初めて採択された日には、ボスニアヘルツェゴビナ内戦の過程で最も大規模な攻撃の1つが発生しました。数ある平和運動のなかでオリンピック運動が抜きんでた成果をあげてきたという研究は、管見のかぎり存在しません。2020年大会に向けても、ルーティンのように国連総会は同様の決議を採択しました(国連総会決議74/16)。2021年にオリンピック大会がおこなわれるとすると、日本でそれをホストするために支出された公費に見合う具体的な「休戦」効果が発生するかどうかは、政府が近年、「証拠に基づく政策立案(EBPM)」をうたっていることからも検証されなければならないでしょう。

 スポーツの価値は現在のオリンピック運動とは別に存在します。1964年の東京大会の時のオリンピック運動は、勤労の義務(日本国憲法第27条1項)と納税の義務(同第30条)を果たしている職業人がレクリエーションとしておこなうスポーツを振興するというアマチュアリズムを理念としていました。プロスポーツはオリンピック運動とは別ものであり、国がプロスポーツの消費を(「スポーツを見ること」ではなく)「見るスポーツ」と呼んで勧奨するなどという発想はありませんでした。しかし、1974年にIOCはアマチュアリズムを放棄し、1984年のロサンゼルス大会で商業主義を確立します。このときロサンゼルスは公費を支出しないことを条件として、同大会をホストすることを受け入れました。同大会をスポーツエンターテインメントとして位置づけた筋の通った扱いでした。その後、IOCは、経済効果を主な利点として大会を世界の主要都市に売り込みつつ、放棄しているはずのかつての理念も引き続き強調しながらいわば「公化」を図ってきました。しかし、近年、住民が大会の招致を拒否する例が増え、足元から「脱公化」されているようにもみえます[xi]。国際法と国際機構が“lex sportiva”やIOCとどのような関係を作っていくのか、今後が注目されます。

 

[i] 欧州連合基本権憲章第13条も「芸術及び科学の自由」について規定しつつ、スポーツには言及していません。東南アジア諸国連合(ASEAN)人権宣言第32項も類似の規定ですが、スポーツには言及していません。

[ii] 1985年の「スポーツにおける反アパルトヘイト条約」もあります(日本は未署名)。     

[iii] 国連先住民族権利宣言第31条1項も先住民が維持する権利をもつ「文化の発現」の例として「スポーツおよび伝統的競技」を挙げているにすぎません。

[iv] 例えば、国際サッカー連盟(FIFA)規程は、FIFAと国内競技連盟との紛争を通常裁判所に付託することを禁止し(第59条2項)、CASに付託されるべきとしています(第58条)。スポーツは参加者の自律性を基礎とする活動だからです。もちろん、公序良俗の観点から、国の通常裁判所がCASの仲裁人の中立性や判断の妥当性を審査する権限は残されています。このような構造ゆえに、IOCや競技連盟に対しては社会的責任(CSR)を問うことが最も重要であるといわれます。

[v] 競技者の保護という点では、ドーピングよりもスポーツ障害や若年競技者への教育の不足の方が深刻かもしれません。児童の権利条約第32条1項は、「危険となり若しくは児童の教育の妨げとなり又は児童の健康若しくは身体的、精神的、道徳的若しくは社会的な発達に有害となるおそれのある労働への従事から保護される権利」を保障しています。

[vi] 高性能シューズなどの利用制限も同種のルールです。今後、パラリンピアンの装具を含めて、そのようなルールが科学の進歩の利益を享受する権利(社会権規約第15条1項b号)を侵害しないか問題となると考えられます。

[vii] 同種の条約として、1981年の「オリンピック・シンボルの保護に関するナイロビ条約」(日本は未署名)や1985年の欧州評議会「スポーツイベント、とりわけサッカーの試合におけるフーリガニズム(Spectator Violence)および不法行為に関するヨーロッパ条約」もあります。

[viii] 世界エイズ・結核・マラリア対策基金、国際赤十字赤新月社連盟、国際商業会議所、また、政府間ではなく議会・議員間の列国議会同盟と地中海議員会議がそこに含まれるNGOです。ICRCはノーベル平和賞を3回、IFRCは1回受賞していますが、同賞を受けた「国境なき医師団」よりもIOCと国連総会が連携するべきなのかは疑問の余地があります。

[ix] 公私の区別は不変ではありません。ユウェナーリスは、ローマ市民が戦士としての訓練にみずから勤しむ代わりに、国が提供する「パンと戦車競技(の見物)」にうつつを抜かしていることを風刺しました(Ivni Ivvenalis satvra X)。これに対して、かつての社会主義国は、競技力の向上は競技者の自己実現やプロのキャリア形成ではなく国の関心事であるとしていました。しかし、今でもアメリカでは、競技力の向上は政府の役割ではないとして公費の支出を否定しています。2011年のスポーツ基本法で競技力の向上を国の役割とする規定を新設したり、オリンピック大会に向けた機運醸成(と呼ばれる世論操作)のために公費を支出したりしている日本は社会主義国の轍を踏んでいるようです。なお、2007年のリスボン条約は、欧州連合(EU)にスポーツを促進する権限を与えました。しかし、EUの権限は、競技会の公正性と開放性の促進や、スポーツ参加者の身体と道徳の保全を目的としており、競技力の向上やスポーツエンターテインメントの提供とは関係がありません。

[x] 同じ年、国連総会は1994年を IOC創設100周年にちなんで「スポーツとオリンピック理念の年」とする決議も採択しています(国連総会決議48/10)。当時のIOC会長は、熱望していたノーベル平和賞を受けるために国連を利用したものの、受賞に成功しなかったといわれています。

[xi] 1980年冬季大会をホストすることが決定していたデンバーが、コロラド州の州民投票の結果、ホスト権を返上しています。また、最近だけでも、2022年大会についてミュンヘンとクラクフ、2024年大会についてハンブルクとボストン、2026年大会についてインスブルックとシオン(スイス)が、住民投票を受けて招致活動から撤退しています。日本でも、2020年大会について札幌が経費を試算し公表したうえで市民アンケートを実施し、「どちらともいえない」27%、「反対」35%、「賛成」33%、「関心がない」2%という結果を受けて、招致活動をおこなわないことを決定しました。国が財政保証を拒否するなどして、特定の都市が招致活動から撤退するように圧力をかけることもあります。2000年大会についてのブラジリアと2022年大会についてのオスロがその例です。