WTO上級委員会の機能不全と今後の展望

国際法学会エキスパート・コメントNo.2021-1

邵 洪範(日本学術振興会外国人特別研究員)
脱稿日:2021年1月10日

 

 

1.はじめに-問題の所在

  WTO上級委員会は、2019年12月10日に2人の委員(米国国籍のGraham氏及びインド国籍のBhatia氏)の任期満了を迎えて以来、審理を行うための3人の定足数を満たせなくなり、事実上その機能を停止しています。2020年11月には残り1人のZhao委員(中国国籍)の任期が満了し、上級委員会は空席の状態となりました。上級委員会は4年任期(1回に限り再任可能)の7人の委員で構成され、通常、個別委員の任期満了前に新しい委員の選任手続が行われますが、米国は上級委員会の運用を問題視し、2017年以來、新委員の選任手続を阻止してきました。上級委員の選任手続が開始されるには、米国を含む全WTO加盟国のコンセンサスが必要です。

 上級委員会は、WTO紛争解決機関(DSB)に設置された常設機関であり、第一審にあたるパネル段階で対象となった法的な問題やパネルの法的解釈を専門的に検討・審査する事実上の上訴審(最終審)です。1995年WTO設立以來、現時点まで発出された計251件のパネル報告書のうち、およそ7割の173件が上級委員会に上訴されており、この数値が示すように、上級委員会制度は加盟国の権利を確保する制度的保障として積極的に活用されてきました。

 WTO紛争解決制度は、貿易交渉が難航する中でも着実に機能し、WTO体制の維持・発展を支える核心的な役割を果たしてきました。しかし、その中枢である上級委員会の機能停止に伴い、「王冠の宝石」と呼ばれるほど存在意義を高く評価されてきたWTO紛争解決制度は、その全般的な実効性の低下を余儀なくされることになりました。もちろん、パネル段階は依然として有効であり、パネルの判定(裁定又は勧告)はDSBで採択されることで実効的に実施・履行され得ます。しかし、WTO紛争解決手続の詳細を定める紛争解決了解(DSU)の下で、紛争当事国は上訴する権利を妨げられないため、敗訴した国が上訴を決定した場合、パネル報告書は採択され得ず(DSU16条4項)、機能停止の上級委員会段階に案件が移行するという、いわゆる “appeal into the void” の事態が発生します。この場合、上級委員会の機能が正常化されるまで、審理は進まず、膠着状態となります。敗訴した国は、上訴することによって自国に不利なパネル報告書の採択を事実上回避することができるため、今後、戦略的な上訴提起が濫用される可能性があります。まさに、WTO紛争解決制度そのものの機能不全を招きかねない事態となりました。

 本コメントでは、上級委員会の危機又はWTO紛争解決制度の危機とも呼ばれる昨今の事態をもたらした主たる要因、つまり、上級委員会の運用に関する米国の問題提起を概観した上で、WTO加盟国がどのように対処しているかを、特に紛争解決制度の改革議論や一部の加盟国によって講じられている暫定的な対策を中心に検討したいと思います。最後に、上級委員会問題に関する今後の展望についても簡単に触れておきたいと思います。

 

2.米国の問題提起

 上級委員会に対する米国政府の不満事項は、2020年2月に発表された米通商代表部(USTR)報告書に集約されています。米国の主な問題提起をまとめると以下の通りです。

 第1に、上級委員会の審理期間に関する問題です。DSUの規定上、上訴審の審理期間は原則として60日を超えてはならず、いかなる場合にも90日を超えてはならないとされます(DSU17条5項)。米国は、2011年以來、上級委員会が90日の期限を守らない事例が急増しており、紛争の迅速な解決を確保するという紛争解決制度の目的が妨げられていると指摘します。

 第2に、上級委員が任期満了後にも継続して上訴案件に関与している問題です。上級委員会検討手続第15項によれば、上級委員会の承認及びDSBへの通知によって、任期満了を迎えた委員は在任中に担当していた上訴案件を完遂することができ、その間は委員としての身分を維持するとされています。米国は、現行のルールが上級委員を選任する加盟国(DSB)の専権(DSU17条2項)を侵害すると主張します。

 第3に、米国は、上訴審の審理範囲がパネル報告書で対象となった法的な問題及びパネルが行った法的解釈に限定される(DSU17条6項)にも関わらず、上級委員会が持続的にパネルによる事実認定について検討を行っていることを問題視します。特に米国は、上級委員会が加盟国における「国内法の意味」を法的問題として捉え、それを新規に(de novo)検討するなど、上級委員会の本来の権限を逸脱していると主張します。

 第4に、上級委員会が紛争解決に必ずしも必要ではない争点について勧告的意見を提示している問題です。米国は、WTO紛争解決制度の目的は紛争に関する明確な解決を確保すること(DSU3条7項)であり、「法を創設する(make law)」ことではないと指摘しながら、上級委員会が勧告的意見を発出することは法的根拠がないだけではなく、紛争解決制度に否定的な影響を与えかねないと指摘します。

 第5に、上級委員会の報告書が有する先例としての位置付けに関する問題です。2008年以來、上級委員会は説得力のある理由(cogent reason)が示されない限り、パネルは上級委員会の法的解釈に従うべきとする立場をとってきました。米国は、上級委員会が先例拘束性を認めた結果、加盟国の同意なしに加盟国の権利義務が影響されていると指摘します。

 以上のように、米国の問題提起は技術的・手続的争点など、多岐にわたりますが、その核心は、上級委員会による権限踰越(overreach)及び司法積極主義(judicial activism)の問題と言えます。米国は、一部の加盟国が上級委員会をまるで独立した国際裁判所とみなし、また、委員をその裁判官のように認識していることについて強い不満を示しており、上級委員会にそのような広い権限を与えることについて米国は同意したことがないと強調します。すなわち、加盟国によって明白に合意された上級委員会の権限はより限定的なものであり、上級委員会がそれを逸脱してまるで自らWTO協定の法を創設するか又はWTO協定の穴を埋めることができるかのように行動してはならない、というのが米国の問題提起の要点なのです。

 

3.各国の反応-Walker提案

 上級委員会の機能停止の問題をどうにか避けるために、WTO加盟国は紛争解決制度の改革(reform)議論を進めてきました。2019年末には、David Walkerニュージーランド大使がファシリテーターとして上級委員会の問題に関する非公式協議プロセスを通じて得た結果を一般理事会の決議案として取りまとめた、いわゆる、「Walker提案」が提出されました。同決議案は、各国からの提案の収束点を見出したものであり、米国が問題提起した事項への対応を含めて、以下のように提案しています。

<Walker提案の概要>

【90日の期限】

・ 原則として90日の期限遵守を再確認。

・ 期限の延長につき、紛争当事国は上級委員会と合意することができる。

【委員の任期満了後の審理継続】

・ 上級委員の選任はDSBの専権事項であることを再確認。

・ 新委員の選任手続は、委員が退任する180日前に自動的に開始されるべき。

・ 委員は任期が満了する60日前までは新しい上訴案件を担当することができ、任期が満了する以前に口頭弁論が行われた上訴案件については、上訴手続を完遂することができる。

【国内法の位置付け】

・ 「国内法の意味」は事実の問題であり、上訴の対象ではない。

・ 上級委員会は、事実問題について「新規に検討」するか又は「分析を完遂」することはできない。

【勧告的意見】

・ 上級委員会は、当事国から提起された争点を紛争解決に必要な範囲においてのみ検討すべき。

【先例の位置付け】

・ 原則としてWTO紛争解決手続を通じて先例は形成されない。

・ 他方、対象協定における権利義務の解釈にあたって、一貫性と予見可能性は加盟国にとって非常に重要であることを確認。

・ 紛争に関わる範囲内で、パネル及び上級委員会は過去の報告書を参考にすることができる。

【権限踰越】

・ パネル及び上級委員会の認定・勧告やDSBの勧告・裁定は、対象協定に規定された権利義務を追加・縮減することができないと再確認。

・ パネル及び上級委員会は、アンチダンピング協定17.6 (ii)に従って同協定を解釈すべき。

【DSBと上級委員会間の定期的な会話】

・ WTO加盟国(DSB)と上級委員会間で定期的に議論する場を設け、報告書の採択とは別途に加盟国が自身の見解を表明できるようにするための制度導入を提案(年一回の非公式会合)。

・ 上級委員会の独立性と公正性を守るために、進行中の紛争案件又は個別委員に関する議論が行われないことを保障するための明確な規則を設けることを提案。

 「Walker提案」に含まれた以上のような提案は、上級委員会がDSUの規定通りに機能しなかった側面があることを認めた上で、米国の立場についてもある程度の配慮を示しており、その意味で、加盟国間での妥協点を探ろうとする試みと評価できます。しかし、「Walker提案」は米国の頑固な態度を変えることができず、結局、採択はされませんでした。米国は、既存のルールを再確認することだけでは、問題解決になり得ず、上級委員会が「何故(why)」本来の権限を逸脱して行動するに至ったのか、その根本的な原因を先に議論すべきとの態度を堅持しています。

 

4.暫定的な対策

  上級委員会の機能不全が現実問題となるにつれ、WTO加盟国は “appeal into the void” の問題に対処するための実用可能な対策を模索しています。

 まず、紛争当事国がパネル報告書を最終審とみなし、上訴しないことに合意するといった方法が考えられます。実際、このような合意がなされた紛争事例がいくつか存在します(例えば、DS488, DS490, DS496)。しかし、事前合意でない限り、果たして敗訴した国が自ら上訴する権利を放棄し、こうした合意に積極的に同意するかは未知数です。

 一方、上訴審を維持させながら、現状を打開するための暫定的な対策として、EUの主導の下でDSU25条における仲裁を上訴審として活用する方法が提案され、注目を浴びています。DSU25条は紛争解決の代替的手段としての仲裁を認めます。当事国は仲裁に付することに合意することができ、また、仲裁に関する手続について合意することができるため、当事国は、仲裁合意を結ぶことでDSU25条の仲裁を事実上の上訴審として活用することができます。2020年4月には、EU、中国、カナダ、オーストラリア及びブラジルを含む一部の加盟国の間で締結された「多国間暫定上訴合意(MPIA)」が発効し、DSBに正式に通報されました。2021年1月現在、24加盟国がMPIAに参加しており、非参加国はDSBに通報することによって、いつでもMPIAに参加することができます。2020年7月には、仲裁を担当する仲裁人の名簿(10人)が確定しました。仲裁は、この名簿のうち3名の仲裁人によって行われます。

  MPIAの内容は基本的に上訴に関する既存のWTO規則に即していますが、いくつかの新しい要素が導入されています。特に、米国が指摘する問題に対する改善策とも思われるいくつかの変更点が見られます。まず、仲裁人は紛争解決のために必要な争点のみ(only)を検討しなければならず(shall)、当事国が提起した争点のみを検討しなければならないとされます。この規定は、紛争解決に不必要な争点について上級委員会がしばしば勧告的意見や傍論(obiter dictum)を述べる傾向があったとの米国の指摘を意識したものと思われます。仲裁期間は90日が原則ですが、仲裁人は仲裁手続を簡素化するために適切な措置(判決文の頁数制限や弁論回数の制限を含む)を取ることができるとされます。90日期限の遵守のために、仲裁人はDSU11条に基づく請求(事実の客観的な評価の欠如)を排除する等の実体的措置を紛争当事国に提案することができます。仲裁人からの提案がある場合には、当事国は90日期限の延長に合意することができます。当事国は、仲裁判断に従うことに同意するとし、仲裁判断は最終的なものとみなされます。仲裁判断はDSBに通報されますが、DSBによって採択はされません。この点、パネル・上級委員会の報告書と異なります。仲裁判断は当事国を拘束することになるでしょうが、仲裁判断がWTO法体制においてどのように位置付けられるかは、現時点で定かではありません。

 

5.おわりに-今後の展望

 上級委員会の機能停止が現実化するにつれ、WTO紛争解決制度の効果的な履行確保が担保され得ない状況がしばらく続きそうです。確かにMPIAは、上級委員会が不在する現状を部分的に補完する役割を果たしうると期待されますが、日本を含めて、米国、韓国、インド、ロシア等の主要国はまだMPIAへの参加を表明しておらず、現時点でその実効性は限定的と言わざるを得ません。米国は、MPIAの予算問題などを指摘しながら、MPIAへの拒否感をあらわにしています。他方、EUは、EUがその全体又は一部を勝訴したパネル報告書を紛争相手国が上訴することで報告書の採択をブロックする場合には、対抗措置を講じられるように域内規則の改正に着手しています。こうしたEUの動きが他の加盟国のMPIAへの参入を促す一種の外圧として作用するか今後の推移を見守る必要があると思います。

  今後のMPIAの実践がWTO紛争解決制度の改革案を多様な観点から「実験」又は「観察」する良い機会になることは間違いありません。現在、MPIAに基づく仲裁の活用が発表された事例がいくつか存在し(例えば、DS522, DS524, DS537)、近い将来にMPIAに基づく仲裁判断の実際を確認することができる見込みです。MPIA運用の成り行きは、今後の米国の態度変化、ひいては本格的なWTO紛争解決制度の改革にも重要な示唆を与えることになると思われます。

  WTO体制を支える重要な柱の1つであるWTO紛争解決手続は、GATT時代の紛争解決手続に比べてより強化された司法化をその特徴とし、法の支配、すなわち、ルールに基づく貿易紛争解決を通じて国際貿易の安定性及び予見可能性の向上に大いに貢献してきました。しかし、WTO紛争解決制度の性質又は運用、とりわけ司法化の進展と上級委員会の権限を巡っては、一部の加盟国の間で見解の相違があったことも事実です。上級委員会の権限を限定させ、加盟国中心の問題解決を好む米国と、より司法化された上級委員会を望むEU・中国等との対立は、現状では短期間での解決は難しい見通しです。このような状況下で、上級委員会問題の解決、ひいてはWTO紛争解決制度の改革は、2021年中に開催予定の第12回閣僚会議(MC12)における最重要議題の1つとなることは言うまでもないでしょう。2021年1月現在、新WTO事務局長の選出を巡る膠着状態が続く中で、バイデン米国新政権の発足とともに、上級委員会の問題が本格的に解決の糸口を見つけることができるのか、注目されるところです。