国際法学会エキスパート・コメント No.2016-4
森 肇志(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
脱稿日:2016年8月27日
1.はじめに
いわゆる平和安全法制(新安保法制)が、2016年3月29日に施行されました。2014年7月1日の閣議決定以降、とりわけ2015年の春から夏にかけての国会内外での論戦は記憶に新しいところです。そこで中心的に問題となったのは、平和安全法制によって日本が集団的自衛権を行使できるようにすることは日本国憲法上許されるのか、という点でした。
この問題の重要性は言うまでもありませんが1)、そもそも集団的自衛権というのは国際法上国家が有する権利です。日本の場合、国際法上有している集団的自衛権について、憲法によってそれを行使できないと解釈してきたところ、今回の平和安全法制において、その一部に限って行使できるようにした、ということになります。
そこで本稿では、日本国憲法上の問題は脇に置き、国際法上の集団的自衛権とはなにかについて簡単に整理したいと思います。
2.国際法上の集団的自衛権のなりたちと「もろ刃の剣」的性格
国際法上の集団的自衛権とは、「一国に対する武力攻撃について、その国から援助の要請があった場合に、直接に攻撃を受けていない他国も共同して反撃に加わるための法的根拠」を意味します。A国がB国を攻撃した際、C国やD国がB国に助勢する法的根拠と言い換えることもできます。ここでB国が反撃する権利が個別的自衛権です。個別的自衛権は、「一国が自国に対する侵害を排除する法的根拠」を意味します。いずれも国際連合(以下、国連)憲章51条によって認められています。
現在の国際法においては国家による武力の行使は原則として禁止されているので(国連憲章2条4項)、C国などが助勢するには禁止の例外としての法的根拠が必要です。集団的自衛権は、国連憲章で認められる禁止の主要な例外の1つであり、その特質はもう1つの例外である集団安全保障(憲章7章)と比較すると理解しやすいと思います。
19世紀のヨーロッパに遡ると、国家による戦争は国際法によって禁止されていなかったので、A国がB国を攻撃した際にC国などがB国に助勢することは国際法上の根拠なしに認められていました。そのため各国は同盟関係を築き、他国から攻撃されたときには同盟国による助勢を期待することで自国の安全を守ろうとしたのです。同盟政策や勢力均衡政策と呼ばれます。
しかしこうした政策には、勢力拡張競争が起こりやすく、一旦戦争が始まると同盟関係を通じて多くの国家が巻き込まれて戦争が大規模化するという欠点がありました。三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)に対して三国協商(フランス・ロシア・イギリス)が対抗する中で生じた第1次大戦は、その悲劇的な実例です。
そのため第1次大戦後は、各国は同盟政策ではなく、国際連盟を創設し、集団安全保障体制(以下、集団安保体制)を築くことで自国の安全を守ろうとしました。集団安全保障とは、対立関係にある国家も含めて、多数の国家が互いに武力行使を慎むことを約束するとともに、いずれかの国がその約束に反して他国を侵略する場合には、残りのすべての国が結集して戦い、そのことによって侵略行動をやめさせようとする安全保障の方式です。しかし国際連盟は、第2次大戦を防ぐことも、それに適切に対処することもできませんでした。
その反省を教訓に創設されたのが国際連合の集団安保体制であり、連盟と比してその強化が図られました。具体的には、すべての加盟国が武力行使を慎むことを約束し(国連憲章2条4項)、いずれかの国による平和に対する脅威、平和の破壊または侵略行為の存在が国連安全保障理事会(以下、安保理)によって認定された場合には、その国に対する軍事的手段も含めた措置がとられることになりました(国連憲章39条、41条、42条)。攻撃等が発生したことの認定およびとるべき措置の決定が、安保理によって集権的になされるようになった点が重要です。
しかし、こうして集団安保体制が創設されても、それが実際に機能するかという不安は残ります。機能するとしても攻撃から時間がかかる可能性もあります。そのため攻撃された国が自国を守る個別的自衛権と、他国がそれに助勢する集団的自衛権とが認められたのです(国連憲章51条)。
このように、国連憲章51条に規定される個別的自衛権も集団的自衛権も、国連の集団安保体制を前提にそれが機能するまでの間、それを補完するために行使されるものとして認められたものです。他方で、自衛権の場合は、A国がB国を攻撃したと判断し反撃の必要性などを決定するのはB国やC国といった個々の国です。とくに集団的自衛権の場合には、C国が攻撃の存在などを恣意的に判断するという濫用(らんよう)の危険が存在します。集団的自衛権は、いわばもろ刃の剣なのです。これまで集団的自衛権の行使と主張されてきたものをみても、集団安保体制を補完するものと、集団的自衛権の濫用と言わざるをえないものとがあるのが実際です。
3.集団的自衛権を行使するための国際法上の条件とその本質
集団的自衛権が有するもろ刃の剣と言うべき性質は、国連憲章の起草過程やそれ以前から明確に意識され、その濫用を防ぐための制度作りが重大な関心事になっていました。国際法上の「歯止め」をどうするか、という問題です。
国際法上の集団的自衛権は国連憲章51条に規定されており、日本も国連加盟国としてそれに拘束されています。同条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(以下略)」と規定します。もっとも、この条文に書かれていることがすべてではなく、ここに規定されていることに加えて、慣習国際法も参照することによって、国際法上の集団的自衛権を行使するための条件を理解する必要があります。
集団的自衛権を行使するための条件の第1は、憲章51条の規定から読み取れるように、ある国に対する「武力攻撃の発生」です。
第2は、武力攻撃の犠牲国(被攻撃国・B国)が第三国(C国・D国)に対して援助を要請することであり、少なくとも被攻撃国の同意が必要です。これは憲章51条には書かれていませんが、国際司法裁判所が慣習国際法上の要件だと明確に述べています。
第3に、集団的自衛権を行使するにあたっては、必要性および均衡性が満たされなければなりません。集団的自衛としてとられる措置が、被攻撃国に対する武力攻撃に対する対応として具体的に必要であり、かつそうした武力攻撃に対して均衡のとれたものであることが要求されるということです。やはり国際司法裁判所がこの点を明確にしています。
第4に、国連憲章51条に規定されているように、国連安保理への報告義務があります。
第5に、同じく、集団的自衛権の行使が認められるのは、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限られます。集団的自衛権が集団安保体制の補完措置であることをよく示しています。但し、いかなる措置をとれば安保理が「必要な措置」をとったことになるのかについて見解は分かれます。安保理が一定の措置をとったとしても即座に状況が改善されるとは限らず、にもかかわらず自衛権の行使をとりやめなければならないかが問題となるからです。自衛権に基づく措置の終了あるいは制限を命じる安保理の意思が安保理決議から明確であれば、憲章25条によりその決議に従わなければなりませんが、そうした場合を除いては自衛権を行使し続けることが許されると解されます。
被攻撃国による援助要請が集団的自衛権を行使するための条件と位置づけられることは、集団的自衛権の本質-それがなにを守ろうとするものか、そしてどの国がそれを行使できるのか-をどのように理解すべきかという点に関わります。
この点については長く争われていましたが、国際司法裁判所によって、被攻撃国からの援助要請が集団的自衛権を行使するための条件と位置づけられ、それがその後の判例で定着したことから、集団的自衛権は、武力行使が一般に禁止される中で、一国に対して武力攻撃がなされた場合に、その犠牲国の要請に基づき、それを援助するために第三国が武力を行使することを正当化する法的根拠と理解されるべきだということになりました。すなわち、集団的自衛権の本質は、「他国の個別的自衛権行使の援助」にあり、それが守ろうとするのは被攻撃国の安全や独立であり、またそれを行使できるのは、被攻撃国から援助要請を受けた国に限られる、という形で整理されたのです。
4.国際法上の集団的自衛権と平和安全法制
平和安全法制の整備にあたって政府は、こうした国際法上の条件をすべて適切に理解した上で、一部は法文に反映させ、それ以外も政府答弁で明確に認めています。
また、日本が集団的自衛権を行使できるのは、こうした国際法上の条件に加え、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃の発生により日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合(存立危機事態)に限られることになりました。これは国際法上の条件にない、日本国憲法に由来する条件にほかなりません。
先に述べたように、国際法上集団的自衛権の本質は「他国の援助」にありますが、平和安全法制によれば、同時に日本の存立が脅かされるなどの場合に限定したという意味で、国際法上一般に認められている集団的自衛権に対して大きく限定されたものと位置づけられます。
もっとも、それが真の意味で「歯止め」になるかについては、もう1つ考えるべきことがあります。というのも、存立危機事態であるか否かの認定は、まずは内閣が行い、その上で国会が行うこととなっています2)。そのことは、一方では、そうした認定は内閣および国会によって行われるのであり、それらの考え次第によっては存立危機事態の理解が広がる可能性があるということを意味します。「存立危機事態」という概念自体が国家の行動に対する「歯止め」になるとは言えず、内閣や国会がどう考えるかということが重要だということです。もちろん事後的に裁判所の判断が下されることは考えられますが、あくまで事後的です。
他方で、そうした内閣や国会の判断を左右するのが国会の多数派だということは言うまでもありません。そしてそれは私たち国民の投票の結果にほかなりません。そうであれば、私たち国民が普段から、すなわち存立危機事態が生じる前から政治に関心をもち、そうした事態において適切に判断することのできる人物を国会に送り込んでおくこと、それこそが真の「歯止め」になるのではないかと思われます。