国際司法裁判所におけるロヒンギャ問題

国際法学会エキスパート・コメントNo.2020-12

石塚 智佐(東洋大学法学部准教授)
脱稿日:2020年6月21日

 

はじめに

 近年、ミャンマー西部のラカイン州に主に住むイスラム系少数民族ロヒンギャに対するミャンマー国軍の迫害やミャンマー政府の対応が国際的に非難を浴びています(事実の経緯に関しては別コメント参照)。この問題に関して、2019年11月11日にアフリカ西部のイスラム教国ガンビアがミャンマーを相手取り、国連の主要な司法機関である国際司法裁判所(ICJ)に「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)」違反を理由に提訴しました。12月10日から12日にオランダ・ハーグのICJで開かれた口頭弁論に、ミャンマーの事実上の指導者である国家最高顧問兼外務大臣のアウン・サン・スー・チー氏が出廷し、初めてこの問題に関して公の場で発言したことで世界的な注目を集めました。翌年1月23日にはミャンマーに対してジェノサイド防止のための措置をとること等の仮保全措置命令が下されました。しかし、なぜミャンマーから遠く離れたアフリカのガンビアがロヒンギャ問題に関してICJに訴えたのでしょうか。そして、今後どのように裁判は進むのでしょうか。

 

1ICJの機能

 まずICJの機能について簡単に説明します。ICJは国家のみしか裁判の当事者になれません。また、すべての訴訟当事国がICJで裁判することに同意していなければなりません。たとえば、日本は2010年に南極海捕鯨事件でオーストラリアから提訴されましたが、その際には両国がICJの強制管轄権をあらかじめ受諾していたことからICJがこの紛争を判断することができました。今回のガンビアとミャンマーの事件では、ジェノサイド条約の締約国[i]は第9条において「この条約の解釈、適用又は履行に関する締約国間の紛争」を裁判所に付託することにあらかじめ同意しており、ミャンマーもガンビアもジェノサイド条約締約国であるため、ガンビアはロヒンギャに対するミャンマー政府の対応が同条約違反に当たると主張して、提訴しているというわけです。このようにICJは同意管轄が原則であり、事前もしくは事後に同意があると言える根拠が必要です。とはいえ、一方的に訴えられた被告はICJの管轄権に異議を唱える場合もあります。その際には本案審理の前にICJは管轄権の有無を判断しなくてはいけません。また、ICJでは、提訴から判決が言い渡されるまでに数年かかります。ICJは一審制で上訴することはできないため一審で判決が確定しますが、終局的判決が出るまでに訴訟主題をなす権利が消滅するなど取り返しのつかない事態になってしまっては当事国も困ります。そういった事態を防ぐために仮保全措置という手続があります。この仮保全措置手続はすべての手続に先立って審理されます。今回出されたICJの判断はこの仮保全措置にあたります。なお、仮保全措置命令はその拘束力の有無に争いがありましたが、2001年のラグラン事件判決においてICJ自らが当該命令に拘束力があることを明確に認めました。

 

2.本件の特徴

 そもそも本件でどうしてアフリカのガンビアがミャンマーを訴えたのでしょうか。ガンビアはイスラム教国でイスラム協力機構(OIC)という国際組織を代表して訴えたということも指摘されていますが、そもそもガンビアはロヒンギャ問題において具体的な被害を被っていません。ただし、ジェノサイド条約という多数国間条約の締約国として、ジェノサイドの防止と処罰の確保という共通利益を有することから、当該条約の解釈又は適用に関する紛争当事国として見ることもできます。これには先例があります。ベルギー対セネガルの訴追又は引渡しの義務事件では、セネガルに亡命していたチャドの元大統領の在任中の拷問行為に対して、セネガルに拷問等禁止条約の定める訴追又は引渡しを求めてベルギーが提訴しました。ベルギーは自国の特別利益の侵害も主張していましたが、2012年判決においてICJはこれを不要として判断せず、拷問等禁止条約の締約国間同士で有する「締約国間対世的義務」としてベルギーの原告適格を認めて、最終的にセネガルの同条約義務違反を認めました。

 ところで、今回の口頭弁論において、ミャンマーの実質的国家元首であるアウン・サン・スー・チー氏が出廷したことで話題となりましたが、当事国を代表する代理人(Agent)は、外務省・司法省の高官が務めることが主ですが(日本は南極海捕鯨事件において外務審議官が代理人を務めました)、大臣級(外務大臣又は司法大臣等)が務める場合もあります。本件のガンビア側の代理人は司法大臣が務めています。スー・チー氏も外務大臣の肩書で出廷しており、その点でいえば前代未聞のことではありません。国のトップにいた人物としては、最近では、ボリビア対チリの太平洋アクセス交渉義務事件(2018年本案判決)において原告ボリビアの代理人を元大統領が務めましたが、本件のように被告側がこれだけ政権の中心人物を出して、熱心に参加するのは珍しいことです。スー・チー氏は、口頭弁論において、一部軍人に国際人道法を無視した行為があった可能性を認めたものの、ジェノサイド行為を否定し、現在、国内司法による救済が行われていると述べ、ICJによる裁判に否定的な姿勢を示しました。

 2020年1月23日、ICJは仮保全措置命令を下し、ミャンマーに対してジェノサイド防止のためにあらゆる措置をとることや犯罪の証拠を保全すること等を17名の裁判官の全員一致で命じました。その際、裁判所は暫定的にではあるもののジェノサイド条約に基づく裁判所の管轄権とガンビアの原告適格を認めました。また、ICJは、ミャンマーに対して最初は4か月後、その後は終局的判決が下されるまでに6か月毎に仮保全措置命令の履行状況を裁判所に報告することも命じました。これはボスニア・ヘルツェゴビナ対新ユーゴスラヴィア(後のセルビア・モンテネグロ、現セルビア)のジェノサイド条約適用事件で1993年の仮保全措置命令が遵守されずに2年後にスレブレニツァの虐殺が起きたことを踏まえて、ガンビアが要請したものです。これに対してミャンマーは、5月に最初の報告書を提出しました。内容は現在公開されていませんが、報道によると日本の官民の支援を受けた警官や軍人への研修なども盛り込まれているとのことです。

 

3.今後の裁判の行方

 今後の展開はまだ不明ですが、ミャンマーが管轄権及び請求の受理可能性を否定すれば、これらの審理が本案審理に先立ち行われることになります。本件では、ミャンマー側が、上記の点に加えて、ミャンマーとガンビアとの間にジェノサイド条約の解釈又は適用に関する紛争が存在することを認識していなかったと改めて主張する可能性があります。その場合、これらの問題がより詳細に審理されることとなります。このような審理の結果、たとえば、ジョージア対ロシアの人種差別撤廃条約適用事件では仮保全段階では暫定的に認められた管轄権が、2011年の先決的抗弁判決において否定されたこともあります。

 裁判所の管轄権及び請求の受理可能性が認められれば、いよいよ本案の審理に入ります。ここでミャンマー政府の行為がジェノサイド条約違反なのか否かが判断されるわけです。しかしその判断は容易ではありません。ジェノサイド(集団殺害)というのは国際社会で最も重大な犯罪の一つで、単なる大量殺害ではなくジェノサイドの「意図」が立証されなくてはいけません。本件においては、ミャンマー国軍の行為がロヒンギャという集団の全部又は一部を破壊しようとする「意図」を伴っていたことが必要ですが、ミャンマー側はそのような意図を否定しています。仮保全措置命令では、裁判所は、国連の独立国際事実調査団の報告書等に依拠し、ジェノサイド条約に基づくガンビアの主張する権利には蓋然性があると判断したのみで、「意図」の有無の判断には踏み込んでいません。

 ジェノサイド条約に関してICJに付託された事件の中で本案審理まで至ったものとして、1990年代の旧ユーゴ内戦に関して、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアがそれぞれ新ユーゴスラヴィアを訴えたジェノサイド条約適用事件の2件があります。ボスニア・ヘルツェゴビナの事件では提訴から14年後の2007年に本案判決が下されましたが、ICJはスレブレニツァの虐殺をジェノサイドと認定し、被告セルビアがジェノサイドを防止する義務に違反し、国際責任を負うことが言い渡されました。しかし、ジェノサイドの行為自体に対するセルビアの責任は認めませんでした。また、1999年に提訴されたクロアチアの事件では、2015年の本案判決においてジェノサイドは認定されませんでした。

 このように終局的な判決が出るまで時間のかかるICJですが、それでは国家にとってICJに訴えるメリットは何があるのでしょうか。ICJの判決には当事国間で法的拘束力があり、当事国が従わなくてはなりません。ほとんどの事件では判決が履行されていると言われていますが[ii]、ICJには国内裁判所のように判決を強制執行する権限はありません。一方の当事国が履行しない場合、国連憲章第94条2項に従い国連安全保障理事会に訴えることができますが、この規定は機能していません。それでも、ボスニア・ヘルツェゴビナのジェノサイド条約適用事件で、ICJがセルビアのジェノサイド条約違反を認定することが、それ自体「満足」として賠償行為になると述べているように、国際社会において、国連の主要な司法機関であるICJが国家の国際法違反を認定するということで十分価値があるのです。

 

おわりに

 ICJにおける本件の審理は始まったばかりです。なお、仮保全措置命令後には同じくOIC加盟国であるモルディブが訴訟参加を表明しており、今後の裁判はますます注目度が高くなると思われます。また、ロヒンギャ問題に関しては、2019年11月14日、国際刑事裁判所(ICC)の予審裁判部がバングラデシュとミャンマーにおける事態について捜査開始を許可しました(詳細は別コメント参照)。現在の国際社会で最も迫害されていると言われているロヒンギャの人々に対する司法的救済がICJとICCでほぼ同時に始まったことにより、現代社会における国際紛争の司法的解決の役割が再確認されるとともに、その役割の実効性を注視する必要もあるでしょう。

 

[i] 現在152か国ですが、日本は締約国ではありません。また、条約の一部の規定に留保を付すこともでき、ロヒンギャ問題に深く関係しているバングラデシュは第9条に留保を付しているため、ジェノサイド条約に基づきICJに提訴することはできません。

[ii] R. Abraham, “The Role of the ICJ in the Promotion of the Rule of Law”, Japanese Yearbook of International Law, Vol. 60(2017), p. 348.