国際法学会エキスパート・コメントNo.2021-3
福島 涼史(長崎県立大学准教授)
脱稿日:2021年3月20日
1 はじめに
「大航海時代」と呼ばれる、グローバルな人の移動が進んだ時期は、フランシスコ・デ・ビトリアらによって、国際法が新たな視野で展開された時代でもありました。Covid-19(新型コロナウイルス感染症)感染拡大後の現代では、反対に、人の移動が大幅に制約され、各国は「鎖国」の様相すら呈していました。華々しく響く「大航海時代」にあっても、ヨーロッパ人に侵入された側では、免疫をもたない感染症のために多くの人命が失われました(「歴史から学ぶヒトの移動に伴う感染症の移動」)。一定程度感染症についての知見のある現代では、人の往来を遮断することが感染症の拡大防止に有効で、また、とりうるほとんど唯一の手段であると目されています。しかし、そのために犠牲になり、後退をよぎなくされているのが国際法、さらに労働の権利、教育を受ける権利などの様々な人権です。
いつの時代も感染症の大規模な感染拡大は危機的な状況を生みますが、今はそれが客観的な状態にとどまらずに、緊急事態・非常事態として「宣言」される対象となっています。この分野で人口に膾炙した用語でいえば、法的な「フェーズ」として格上げされ、その分、これまで拡充されてきた人権保障、制度、慣行を一斉に停止する根拠として働きます。このまま、時計の針は世紀をまたいで巻き戻され、関連する国際法や人権が影を潜める新常態となっていくのでしょうか。かつてビトリアの説いた通行・交流権(ius communicationis)はどうなってしまうのでしょうか。
このように国際法を制約するものであってみれば、各国の緊急事態・非常事態の宣言は、国際関心事となり、国際法や国際社会の側でも検討・評価すべき対象となります。国連人権高等弁務官は、繰り返し、人権の要請として、移動の自由への制限措置には、時期の定めがなければならないことを訴えています。さらに一般に、各種の措置が、必要なものであり、かつ、想定されるリスクに対して均衡的であることを求めています。加えて、差別的でないことの要請も語ります。より包括的に、国連事務総長も法の支配の尊重を説いています。そこで以下では、これらの基準・要請を、法治国的観点から敷衍し、考えてみたいと思います。
2 必要性と均衡性―科学的根拠による目的設定
必要性の要件は、ここでは特に、科学(医学上)の根拠、あるいは、期待される効果との因果関係を明示することです。国際保健機関(WHO)は、Covid-19に関してのMythbusters(ウソ&ホント)を用意して、それがウィルスであって菌ではないことなどを強調していますが―厚生労働省は「除菌」という用語を維持しています―、政策・措置もMyth(ウソ)に左右されている可能が常にあります。もっとも、この感染症については科学(医学)的知見も十分とはいえず、環境法分野で展開されてきた事前配慮・予防原則の応用とならざるをえない局面が多々あります。確実な予測が難しくてもなお、実際の被害・侵害が起こってからでは手遅れになることを前提として措置がとられるのです。この場合でも、決断を下す段階で得られる成果・情報を可能なかぎり集約し、守ろうとする法益を特定しなければなりません。このためにも、各国は連携して情報の共有に努め、また、国際機関の提示するガイドライン等を参照すべきです。
均衡性の要件は、上の必要性の段階で特定される法益を前提に、より戦略的な目的の設定、また、それに照らしての手段のあり方を問うものです。これに関しては、比較衡量、すなわち、得られる利益と失われる利益を天秤にかけて判断することがイメージされやすいのですが、採用することはできません。もし、両者を金額などの量に置き換えることが可能であればそれなりに妥当なものですが、Covid-19に即しては、文字通り計り知れない重さで機能しません。そもそも達成しようとするものを量で表せるとも限りません。これに代わって、目的と手段との間に合理的な連関があるかを検証し、判断すべきです。この最良のモデルが、武力紛争法分野で練り上げられてきた、軍事目標(ターゲット)主義とその下での均衡性です。「スズメを撃ち落とすのに大砲を用いるべきではない」といわれますが、ここでは両者の大小が問題なのではなく、大砲が使えるとしてもなお、その都度発砲の狙いを自問することが促されているのです。
日本政府によって入港拒否(上陸拒否)されたクルーズ船の受け入れも国際的関心を集めました。この措置は、WHOのテドロス事務局長によって、「エビデンス(科学的な証拠)に基づくリスク評価」を経たものではないと批判されました。上陸を認めた上での隔離、検査後の治療など様々な受け入れが考えられる中で、入港拒否という措置でしか達成できない衛生管理上の目的というものは想定しがたいということが背景にあります。日本国内にいる者の安心感、繁忙を極めるであろう受け入れ業務の回避などがそこでの隠れた目的であったと思われます。その程度の目的のためであれば、入港拒否といった究極の手段(大砲)は不相応だということになります。国際保健規則(IHR2005)はその第28条1項で原則として公衆衛生上の理由により入港(上陸)を拒否することを禁止しています。日本では金科玉条のようにいわれる「水際の対策」も、WHOからすれば時間稼ぎでしかありません。
日本の緊急事態宣言も二回目となると病床の逼迫ということが掲げられるようになりました。これは、病床使用率を一定にするという、いわば合理的な時間稼ぎをすることが、より限定的な目的として設定されたものと評価できます。このように戦略・技術的に確定された目的のためであれば、自ずととられるべき手段の輪郭(期間・範囲等)も描くことが可能になります。すべての人が報告される病床の数を見て解除のタイミングを予測することができ、また、再宣言されたとしても、その必要を了解・判断できます。この意味で、均衡性の要件に照らせば、感染症の拡大防止といった漠然とした「目的」ではもはや不十分ということです。
3 恣意性の排除―法的根拠による争点設定
無差別性については、教科書上、例えば入国管理に関して、国家は外国籍の者を入国させる義務を負わないが、特定の国の者だけを狙い撃ちするような差別的取り扱いは許されないと説明されます。もちろん、多くの場合、特定の国が選び取られることの正当化事由が提示されます。そうなると結局、上記2の目的―手段連関の検証を通じて、恣意性が判断されることになります。エキスパート・コメントNo.2019-7(「韓国による日本産水産物等の輸入制限に関する紛争について」)においても、WTO紛争解決了解(DSU)に基づき設置された小委員会(パネル)が、「措置とその目的(韓国の消費者を被ばくの危険から守ること)の間に合理的連関を見出すことはできず恣意的・不当な差別に当たると判断」したと紹介されています。もっとも、恣意性の排除をより確実にする方法は他にもあり、それが立法です。
自由権規約はその第12条で「自国に戻る権利を恣意的に奪われない」ことに触れ、ついで第13条において、「合法的にこの規約の締約国の領域内にいる外国人は、法律に基づいて行われた決定によってのみ当該領域から追放することができる」と規定します。起草過程から後者も一般に恣意的追放の禁止と性格づけられています。ここからうかがえるように、国内法を整備し、そこに定められている基準に則って措置を決定することは、恣意性を排除する最良の方法です。
緊急事態・非常事態が宣言される法的根拠は憲法から法律、さらには州法など様々ですが、大切なのは個別の措置がとられる際の法的根拠です。丸投げの授権ではなく、特定の条文で当該措置の基準が定められていなければなりません。これは個人の権利侵害を防ぐための方策(法の支配の射程)に留まらず、国家機関相互のコントロールのための基礎(法治国の固有の射程)としても重要です。法律に列挙された基準は争点を明確化し、裁判所などの他の機関が行政府の措置を追体験し、再検証することを可能にします。もちろん、説明責任を果たす上でも鍵となり、同時に、予測可能性を高めるものです。
これらの対極として思い起こされるのが、在留資格の更新が拒否されたマクリーン事件判決です。そこでは法務大臣の広範な裁量が前面に押し出され、仮に内部的な準則が存在し、それに違反したとしても違法にはならないとされました。もしこのように、何らの基準もなく、サイコロを振って決めてもよいほどの無限の裁量を法務大臣が行使しえるとしたら、誰もその決定を説明できず、将来の政策立案にとっても大事なはずの争点が隠されたままになります。これに対しては、法律の改正・拡充により、規律密度を高めることが第一です。それがすぐに行えないとしても、まさに判決で役割を減じられている内部的な準則を定め、公表することによっても、一定の機能が果たされます。このようにルールを掲げることは、恣意的決定を低減させるのみならず、第三者が必要性や均衡性の評価を行う際の補助線、手がかりとなります。
4 おわりに
戒厳令や国家緊急権の発動などは物理的な強制を許容するものであっても、ある意味では外在的な制約にとどまります。これに対して、緊急事態・非常事態宣言は、人々の見方、内面にも作用する異質なものです。他者、他国との交流を遮断し、引きこもって自分たちの身を守るべき時代だとの認識・価値観が植え付けられかねません。国連事務総長によっても民族・一国中心主義に警鐘が鳴らされています。ビトリアが普遍的理性にうったえて国際法を基礎づけたように、Covid-19時代の今、普遍的な法の支配、さらには、法治国の原理・原則によりたのんで、持続可能な通行・交流権(ius communicationis)のあり方を模索していきたいものです。