国際社会における人種差別撤廃の要求と日本の課題

国際法学会エキスパート・コメントNo.2021-6

佐々木 亮(聖心女子大学国際交流学科専任講師)
脱稿日:2021年7月12日

 

 

1. はじめに

 あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(以下、人種差別撤廃条約)は、「あらゆる形態及び表現による人種差別を速やかに撤廃するために必要なすべての措置をとること並びに人種間の理解を促進し、いかなる形態の人種隔離及び人種差別もない国際社会を建設する」(同条約前文)ことを目的として、1965年に国際連合(国連)総会で採択され、1969年に発効した多数国間条約で、国連の中核的人権条約の1つです。以下、人種差別撤廃条約の成立経緯や人権保障におけるその意義を確認し、次いで、締約国として、日本が向き合うべき課題を検討します。なお、同条約の履行監視機関としての人種差別撤廃委員会については、既刊のエキスパート・コメント:洪恵子「国連・人権条約体の役割とは-人種差別撤廃委員会(CERD)の活動」(No.2020-8、2020年6月1日)で扱われていますので、あわせてご参照ください。

 

2. 国際社会における人種平等の要求と人種差別撤廃条約

 人種差別を撤廃するという要求は、全ての人間は自由かつ平等であるという近代人権思想の基本原則と強く結びついており、アメリカ独立宣言(1776年)やフランスの人及び市民の権利宣言(1789年)にも掲げられています。しかし、これらの宣言によって、現実に全ての人間の平等が実現したわけではありません。例えばアメリカでは、奴隷解放宣言(1863年)まで黒人奴隷の使役・売買が合法であり、先住民族の土地を収奪しながらの開拓も続きました。1964年の公民権法の制定まで、公共施設が白人用と有色人種用のものに区分されていたなど、独立宣言から2世紀近くにわたって、法が人種差別を容認する状況でした[i]。そして、黒人殺害事件に対する憤りの声を反映して、2013年に#Black Lives Matter(BLM)運動が始まり、近年改めて関心を集めたことは、現在も人種差別の問題の根深いことを象徴しているのではないでしょうか。

 国際社会に目を向けても、第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議(1919年)で、国際連盟規約に「人種平等条項」を置くように求めた日本の提案が、参加国の強い反対を受けて拒否されたように、人種差別は深く根を下ろしたものでした[ii]。他方で、奴隷貿易・奴隷制の廃止は、18世紀初頭の国際会議の成果文書の中で既に言及されており、例えば、ウィーン会議議定書(1815年)には、「奴隷貿易廃止に関する宣言」が盛り込まれています[iii]。戦間期には、国際連盟の下で、人間を取引の対象とすることを禁止する奴隷条約(1926年)が採択されました。現在、奴隷的苦役を強いられないことは、基本的人権の1つとして確立し、世界人権宣言(1948年)4条や市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約、1966年)8条等において、人種差別の禁止とは別個に規定されています。奴隷制の犠牲者の多くが、アフリカから連れ去られた黒人だったことを考えると、奴隷貿易・奴隷制の禁止は、国際社会が人種差別撤廃に向かう動きに先駆けるものだったといえるでしょう。

 第二次世界大戦後に設立された国際連合(国連)は、人権の保護促進をその目的の1つに掲げています(国連憲章1条3項)。国連創設から間もない1948年には、国民的・人種的・民族的・宗教的集団に対する殺害や破壊を国際法上の犯罪とした集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)と、その後の国際人権保障の基礎となった世界人権宣言が採択されました。世界人権宣言2条1項は、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく」、全ての人間が基本的人権と自由を享受すべきことを明らかにしています。

 同時期、戦中にナチス・ドイツが、ユダヤ人をはじめ民族的少数者や障碍者に対して行った大量虐殺や南アフリカにおける人種隔離政策(アパルトヘイト)への非難が高まり、国連総会は、南アフリカ国内における人種隔離政策が、国連憲章上の義務に反するとした決議44(1946年)を採択しました。人種差別の撤廃に関わる国際法規範の定立が促され、特に1960年代からは、脱植民地化の動きも加わって、人種差別の撤廃に関する国際法規範が充実していきました。人種的・宗教的・民族的憎悪の表現や慣行が、国連憲章と世界人権宣言に反するとする国連総会決議1510(1960年)、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国連宣言」と「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約の起草準備」に関する決議1906(ともに1963年)等が採択され、1965年12月21日に人種差別撤廃条約の採択に至りました[iv]

 人種差別撤廃条約1条1項は、「人種差別」を「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定義し、2条1項では、国や地方公共団体が自ら人種差別を行わないだけでなく、私人や私的団体による人種差別を禁止し、終了させる義務を定めています。このほかにも、条約に違反する人種差別に対して、裁判所などを通じた保護・救済や損害賠償を求める権利を確保すること(6条)、教育や文化・情報の分野を通して、人種・民族間の理解や寛容・友好を促進すること(7条)を締約国に義務付けています[v]

 また、人種差別撤廃条約の前文は、「人種的相違に基づく優越性のいかなる理論も科学的に誤りであり、道徳的に非難されるべきであり及び社会的に不正かつ危険であること」を宣明しており、「人種」によって人間を区分すること自体を否定しているように読めます。このような考え方は、国連教育科学文化機関(UNESCO)の「人種問題」についての声明(1950年)で既に表明されており、人種差別撤廃条約の採択以後も、「人種及び人種的偏見に関する宣言」(1978年)、地域レベルでは、旧欧州共同体(EC)理事会の「人種及び種族的出自に基づく差別の禁止に関する指令」(2000年)にも受け継がれています。

 このような国際社会の動向は、2001年に南アフリカのダーバンで開催された「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議」で再確認されました。さらに、最近の例として、国連国際法委員会(ILC)が2019年に採択した暫定結論案では、国家間の合意による逸脱を許されず、全ての国が守るべき一般国際法上の強行規範(jus cogens)の例として、人種差別やアパルトヘイトの禁止が挙げられる等(Draft Conclusion 23, Annex)、人種差別をなくすという目標は、国際社会全体で共有されていると言っても過言ではありません。

 

3. 人種差別撤廃条約と日本の課題

 日本は1995年に人種差別撤廃条約に加入しました。その際、条約の内容は既に実施できているとして、新規の立法措置は行われませんでした。また、人種的憎悪の流布や人種差別の扇動を禁止し、法律上の犯罪とすることを締約国に義務付けた4条(a)及び(b)に留保が付されました。これは、表現の自由と抵触する恐れがあることや自由な言論を通じて人権意識が高められるべきであること、特定の個人・団体に向けられたものは既存の法律で犯罪となっていること等を理由とするものです[vi]。しかし、この時に条約に対応するための法整備が行われなかったことで、今日でも、人種差別の禁止に関する包括法が存在しないままとなっています[vii]

 人種差別撤廃条約の締約国となる以前から、日本にも、部落差別をはじめ、アイヌや琉球・沖縄の人々や在日韓国・朝鮮人に対する民族差別の問題がありました[viii]。しかし、米国等と比較して、皮膚の色による差別の問題が注目されることが少なく、人種差別そのものへの社会的関心も高くなかったこともあって、それらの差別問題は、人種差別としては認識されてきませんでした[ix]

 人種差別の問題が、日本にも確かに存在することを印象付けた事件として、小樽入浴拒否事件があります。米国出身で日本に国籍を取得していた原告が、北海道小樽市内の公衆浴場で、身分証明書を提示してもなお、外見が外国人であることを理由に利用を拒否されたことから、本人の人種を理由とする不当な利用拒否であると考え、浴場の運営会社と小樽市を相手に提訴しました[x]。札幌地裁は、憲法14条等とともに人種差別撤廃条約を、民法709条の「不法行為」の解釈基準として用い、原告の受けた扱いは、人種差別撤廃条約上の人種差別にあたり、不法行為を構成すると判示しました(小樽入浴拒否事件判決、2002年11月11日)。この判決は、私人間の人種差別の問題に、裁判所が人種差別撤廃条約を適用した点で、条約の国内適用のあり方として評価される反面、「人種差別を禁止する」という人種差別撤廃条約の趣旨に照らせば迂遠な方法であり、人種差別を禁止する包括法が存在しないことから生じる問題を浮き彫りにするものでもありました[xi]

 国など公的機関による人種差別が裁判において問題となる場合、人種差別撤廃条約は、必ずしも効果的に適用されていません。いわゆる「朝鮮学校無償化訴訟」では、原告が人種差別撤廃条約2・5条を根拠の1つとする主張を行ったところ、「締約国の政治的責任を宣明したものに過ぎない」として、条約が事実上考慮外に置かれ、人種差別撤廃条約が活かされたとはいえません[xii]

 近年、ヘイトスピーチ規制に関する条例を制定する地方公共団体が増え、中には、罰則規定を持つ条例も見られます[xiii]。しかし、人種差別撤廃条約4条(a)・(b)に留保を付していることもあり、国レベルでは、ヘイトスピーチに対して、十分な対策がとられていません。特定の個人・団体に向けられたものであれば、名誉棄損罪や侮辱罪、威力業務妨害罪の適用による対応も可能ですが、「〇〇人」のように、特定の人種・民族集団に属する者一般に向けられた行為には、効果的に対処できないという限界もあります。本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)が2016年に施行されていますが、「専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの」に対する不当な差別的言動の解消を目的としており(1・2条)、人種差別撤廃条約1条と比較して対象が著しく狭く、また、国民への理解や啓発(7条)を定めるにとどまり、人種差別撤廃条約4条によって求められる人種的憎悪の流布や人種差別の「禁止」とは、乖離したものになっています。

 

4. おわりに

 人種差別を撤廃するという要求は、全ての人間は自由かつ平等であるという近代人権思想の基本原則と強く結び付いているとともに、国際社会が共有する目標の1つです。1995年に日本が人種差別撤廃条約に加入してから四半世紀が過ぎても、条約の国内実施をめぐって、改善すべき問題は数多くあります。しかし、ヘイトスピーチ解消法や地方条例の制定のように、人種差別の撤廃へと向かう動きが全くないわけではありません。締約国として進むべき方向を示すものとして、条約の趣旨や人種差別撤廃委員会の総括所見を尊重し、条約義務の履行を確かなものにしていくことが求められています。

[i]  浜林正夫『人権の思想史』(吉川弘文館、1999年)、66-84頁。

[ii]  大沼保昭「遥かなる人種平等の理想-国際連盟規約への人種平等条項提案と日本の国際法観」大沼保昭(編)『国際法、国際連合と日本(高野雄一先生古稀記念論文集)』(弘文堂、1987年)、447-455頁。

[iii]  詳しくは、川分圭子「近代奴隷制廃止における奴隷所有者への損失補償-世界史的概観」『京都府立大学学術報告(人文)』64号(2012年)、51-58頁。

[iv]  条約の起草過程について、ナタン・レルナー(斎藤恵彦、村上正直訳)『人種差別撤廃条約』(解放出版社、1963年)、3-9頁。

[v]  人種差別撤廃条約の規範内容については、前掲のレルナー「人種差別撤廃条約」28頁以下のほか、村上正直『人種差別撤廃条約と日本』(日本評論社、2005年)、15頁以下。

[vi]  人種差別撤廃委員会への日本の第1・2回定期報告(2000年1月13日)、paras 49-57.

[vii]  人種差別撤廃委員会、日本の第10・11回定期報告に関する総括所見(2018年8月30日)、paras 7-8, 10-14.

[viii]  人種差別撤廃委員会、日本の第1・2回定期報告に関する総括所見(2001年3月20日)、 paras 7-8.

[ix]  近藤敦『人権法』第2版(日本評論社、2020年)、124-126頁。

[x]  小樽入浴拒否事件の原告デイヴィッド・C・アルドウィンクル(有道出人)氏の著書に、『ジャパニーズ・オンリー-小樽温泉入浴拒否問題と人種差別』(明石書店、2003年)で、事実関係や判決が詳述されています。

[xi]  申惠丰『国際人権入門-現場から考える』(岩波新書、2020年)、88-89頁。北村泰三「在日コリアン弁護士協会所属の弁護士に対する大量懲戒請求が人種差別撤廃条約に違反するとした判決」『新・判例解説Watch』国際公法No.46(2020年)も、私人間の差別における人種差別撤廃条約の適用のあり方、それほど変わっていないことを示しています、

[xii]  拙稿「朝鮮学校を高等学校等就学支援金の対象外とした措置の適法性と国際人権基準」『新・判例解説Watch』国際公法No.41(2018年);李春熙「司法は行政による差別を追認するのか-『朝鮮高校無償化訴訟』の現状」『法学セミナー』63巻2号(2018年)、55-61頁。なお、このことについて、人種差別撤廃委員会は、日本の第10・11回定期報告に関する総括所見(para.21・2018年)、日本の第7・8・9回定期報告に関する総括所見(para.19・2014年)等で、繰り返し懸念を表明しています。

[xiii]  詳しくは、地方自治研究機構:ヘイトスピーチに関する条例